353.この子を、愛せない
私には、愛というものが分からない。
カスト様に対する感情も、そして、このリリスに対する感情も。
それが世の人が言う愛なのか、それとも単純に私の理性的な判断と利益の計算によるものなのか、どうしても判断がつかない。
私はただ、大人しく可憐で物分かりの良いタロシア公爵夫人を演じきり、公爵家にふさわしい母の義務を果たしているだけなのだと、自分ではそう分析している。
カスト様には貞淑な妻として接し、リリスには高位貴族の娘に相応しい環境を与えている。
それで十分なはずだった。
しかし、あの日、リリスが私に向けた言葉の棘が、いつまでも私の心に深く刺さったまま抜けない。
私の出身が低いことを、絵本の貧しい少女に重ね合わせ、哀れむ笑顔。
あの言葉は、本当にただの子供の無邪気な発言だったのだろうか。
もしかすると、日頃からあの子の周囲にいる家庭教師やメイドたちが、私の生い立ちを軽蔑し、あの子に吹き込んでいるのではないか。
そう疑念を抱いた私は、ある日の午後、リリスの教育に問題がないか確認するため、子供部屋へと向かった。
扉の隙間からこっそりと中の様子を窺う。
中では、中級貴族出身の初老の家庭教師が、歴史の授業を行っていた。
リリスは背筋を真っ直ぐに伸ばし、真剣な表情で先生の言葉に耳を傾けている。
「はい、先生。その時代の王は、農業を重視したと本に書いてありましたわ」
リリスの言葉遣いは非常に丁寧で、声のトーンも落ち着いている。
そこには、私の出自を馬鹿にするような雰囲気も、リリスの性格が歪んでいるような兆候も見当たらなかった。
教育そのものには、何の問題もない。
私は少しだけ安堵して、その場を立ち去ろうとした。
だが、その数日後。
私は、より恐ろしい事実を目の当たりにすることになった。
お茶の準備を命じようと、厨房へ向かう廊下を歩いていた時だった。
角を曲がった先の物陰から、リリスの甲高い声が聞こえてきた。
相手は、タロシア家に入ったばかりの下級メイドのようだ。
私は足を止め、壁に身を隠して二人の会話に耳を傾けた。
「どうして私の大好きなパンケーキがないの? 王都のあのお店で、もう買ってくださいって、昨日からちゃんと言ってたじゃない」
リリスの声は、家庭教師に向けられていたものとは全く違っていた。
冷たく、相手を完全に下に見下している響き。
下級メイドは震える声で弁明する。
「申し訳ございません。リリスお嬢様。そのお店の品物はとても人気でして、私が向かった時には、すでにお昼の分が全て売り切れてしまっていたのです」
メイドの必死の謝罪に対し、リリスは容赦のない言葉をぶつけた。
「ならば、朝一番から毎日お店の前に列に並んで、たくさん買っておけばいいでしょう? あなたは、タロシア公爵家のメイドとしてお給料をもらって働いているのよ。なんでそんな簡単なこともできないの? ねえ、答えてよ。なんで?」
リリスの口調には、一切の怒気は含まれていない。
ただ純粋に、無能な人間を詰問している、冷徹な理詰めの音声だった。
「そ、それは……他のお仕事もございまして……」
メイドが泣きそうな声で答えると、リリスは冷たい息を吐き出した。
「私へのパンケーキの用意よりも、大切な仕事があると言うのね。わかりました。メイド長に言って、あなたのお仕事をもっと簡単なものに変えてもらいますわ」
それは、事実上の解雇宣言だった。
「お、お待ちください、お嬢様! どうかお許しを……!」
メイドが床に膝をつき、必死に許しを乞う音が聞こえる。
私はその光景を直接見てはいなかったが、壁の向こうの冷え切った空気が肌に伝わってきた。
私には、本当の母親としての経験や、温かい家族の記憶はない。
それでも、今のリリスの態度は異常だと、はっきりと認識できた。
この子は、まだ六歳にも満たない幼児だ。
それなのに、相手の身分と価値を正確に値踏みし、それに応じて自身の行動を完全に変えている。
自分より身分が高く、利益をもたらす家庭教師には礼儀正しく従順に振る舞う。
しかし、自身の命令を聞くべき下級のメイドに対しては、絶対的な権力者として冷酷に命令し、少しでも失敗すれば無慈悲に切り捨てる。
生まれつきの特権階級。
タロシア公爵家という莫大な権力と富の中で育ち、その権力を当然のものとして振るう怪物。
私が幼い頃、お金のために周囲の顔色を窺い、必死に生き延びてきたのとは全く正反対の生態。
あの日、私の出自を哀れんだあの言葉も、決して無邪気なものではなかったのだ。
私という人間を「低い身分から成り上がったかわいそうな女」として値踏みし、自分よりも下の存在だと無意識に格付けした結果だった。
私は壁に背中を預け、冷え切った両手で自身の胸元を強く押さえた。
あの時からだ。
私は、このリリスという娘に対し、どうしても強い抵抗感と恐怖を感じてしまう。
私には、この子を愛することはできない。




