352.娘が、私を見下した
私も、カスト様も、様々な仕事で本当に忙しく立ち回っていた。
この子、リリスに直接付き合ってやれる時間はごく僅かしかない。
それでも、タロシア家の豊富な資金で雇い入れた聡明な家庭教師や、礼儀正しい高級メイドたちの手厚い世話により、あの子は健康に育っていった。
私と同じく、容姿端麗で、非常に綺麗な子だ。
すれ違う誰もが、その可憐な姿を絶賛する。
「おお、リリス。今日も天使の愛らしさだな。私の自慢の娘だ」
カスト様は、政務の合間にリリスの顔を見るたび、目尻を下げてそう褒め称えた。
「リリスお嬢様は、本当に美しい桜色の髪をしていらっしゃいます。お召し物も大変よくお似合いで」
身の回りの世話をするメイド長も、ため息を漏らしながら絹のドレスの裾を直す。
「サリス様。リリスお嬢様の容姿は、王国の宝と言っても過言ではありません。ただ……勉学よりもお洒落に興味がおありのようで」
初老の家庭教師は、遠回しにリリスが聡明というよりは美貌に全振りしていることを報告してきた。
私にとっては、美しいだけの飾り人形でも構わない。
金と権力を持つタロシア家の娘であれば、美しさは最高の武器になるからだ。
しかし、私の内心には常に焦りが渦巻いていた。
最近、カスト様と夜を共にする時間が目に見えて減っている。
それでも、二人目の子供がやってこない。
不安に駆られ、信頼できる王都の医師を密かに屋敷へ呼び寄せた。
「サリス様。申し上げにくいのですが……。最初のご出産で、お身体を大変傷つけておられます。次に命を授かる確率は、非常に低くなっております」
初老の医師が告げた言葉は、冷たい刃となって私の腹の底を刺した。
「確率を少しでも上げるためには、旦那様と夜の時間をより多くお過ごしいただき、何より安静にされることが必要です」
医師の言葉を理解はしている。
だが、時間は限られている。
私は、カスト様に「物分かりの良い、控えめで完璧な妻」を演じ続けている。
私の口から、夜の営みを増やしてほしいなどと直接的な願い事をするわけにはいかない。
そんな端したない真似をすれば、今まで築き上げてきた清楚な仮面が崩れてしまう。
それに、私にはもう一つ、時間と労力を注がなければならない重要な使命があるのだ。
カスト様が当主としての仕事に忙殺され、領地の末端まで完全に目を光らせることができない今のうちに、公爵領の目立たない場所に、私の実家であるアルバレス男爵家がこっそりと稼げる取引の拠点を設立し、安定させなければならない。
お父様、お母様、お兄様、お姉様。
貧困に苦しんできた彼らが、将来にわたって裕福に暮らせるだけの資金源を構築すること。
それには、複雑な帳簿の操作や、信頼できる人間を通じた他領との交渉など、いろいろ工夫し、裏で手を回さなければならないことが山のようにあった。
毎日、頭をフル回転させ、密書を送り、報告書に目を通す。
まともな休養など、できるはずもなかった。
焦りが日を追うごとに募っていく。
寝不足で重い頭を抱え、痛む下腹部を押さえながら、私は何度心の中で呪ったことだろう。
この子が、リリスが男の子であったなら。
もしこの子が男であれば、私はこんなに体を鞭打って焦る必要などなかった。
跡継ぎを産んだ公爵夫人として、もっと余裕を持って実家の支援に専念できたはずなのに。
焦燥感に追われながら裏工作に没頭している中、あっという間に時間は流れ、この子はもう六歳になっていた。
桜色の長い髪は絹糸のように滑らかで、白い肌は透き通るようで、甘く良い香りを常に漂わせている。
歩く姿、笑う姿、その全てが完成された芸術品のようだった。
周囲の者たちは相変わらず、リリスを見るたびに綺麗だと褒めちぎる。
けれど、私が求めていた「跡継ぎ」としての価値を持たない娘が、ただ美しい人形として育っていくことに、私はなんとも言えない苛立ちを隠せなかった。
そんなある日の午後。
私は珍しく時間が空き、自分の体調も少しだけ良かったため、リリスの教育の様子を見ようと子供部屋へ行ってみた。
家庭教師は退出しており、リリスはソファに座って、綺麗に装丁された絵本を開いていた。
私が部屋に入ると、リリスは顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「ママ。今日はママがお話ししてくださるの?」
その無邪気な声と、完璧に整った笑顔。
私は小さくため息をつきながら、ソファに腰を下ろし、リリスを隣に座らせた。
「ええ、少しだけですわ。何を読んでいたの」
「あのね、王子様と、かわいそうな庶民の女の子のお話よ」
リリスが差し出したのは、よくある王道の御伽噺だった。
身分が低く貧しい女の子が、王子様に見初められてお城へ迎え入れられ、幸せになるという物語。
私は本を受け取り、ゆっくりとした口調でそのお話を読み聞かせ始めた。
美しいドレス、輝く宝石、大きな城。
貧しいヒロインが次々と贅沢なものを手に入れていく描写は、かつての私が血の滲むような努力で手に入れたものと重なる部分があった。
お話が終盤に差し掛かった時。
ふっと、隣で聞いていたリリスが、私の顔を見上げて口を開いた。
「ねえ、ママ」
その目は、一点の曇りもない純粋な色をしていた。
「ママって、男爵令嬢よね」
心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
「お勉強の先生が教えてくれたの。男爵令嬢って、すごーく低級な貴族なんじゃないの?」
リリスの声には、悪意など微塵もない。
ただ、新しく覚えた知識を無邪気に披露しているだけだ。
「ママは、そんな低い身分から、最高級の公爵家に入れて、お父様と結婚できたんでしょう?」
私は本を持つ手に力が入り、紙が僅かにひしゃげる音を立てた。
「きっと、すっごく幸せよね。ママは、この御伽噺の、かわいそうな庶民の女の子みたいよね」
リリスは花が咲くような、愛らしい笑顔で私を見つめている。
自分の母親を、同情されるべき貧しいヒロインに重ね合わせて、無邪気に笑っているのだ。
「それは……っ」
私の声帯から、掠れた音が漏れた。
天然で、純粋で、貴族の子供ならではの、何一つ隠すことのない無自覚な悪意。
貧乏男爵家という私の最も触れられたくない劣等感と、必死に計算し尽くして勝ち取った今の地位を、「かわいそうな庶民が拾われた」という言葉で軽々と要約された。
美しいだけの、男に生まれなかった失敗品の娘が、私の血みどろの過去を、キラキラとした御伽噺のフィルターを通して見下ろしている。
私は絵本を持つ手に力を込め、顔の筋肉を引きつらせながら、必死に完璧な妻と母の仮面を繋ぎ止めようとしていた。




