348.あなたは、許せない
ミカレン様は息を呑み、言葉を失っていた。
冷たい夜風が吹き抜けるベランダで、彼女の青いドレスが小さく揺れる。
しばらくの沈黙の後、震える声帯から言葉が絞り出された。
「あなた…あなたは、愛情まで偽ろうとしているつもりか!」
彼女の瞳は怒りと悲しみで赤く染まり、私を強く睨みつけている。
私は扇で口元を隠し、静かに微笑みを維持した。
ここでどれほど罵倒されようとも、私の態度は揺るがない。
他の貴族たちの目には、私は既にカスト様を心から愛する、か弱く可憐な令嬢というイメージが完全に定着している。
不器用で素直すぎるミカレン様が、仮に今の私の本音を広めようとしたところで、誰も信じる者はいない。
そこまで計算して、私はこの数年間、完璧な仮面を被り続けてきたのだ。
ミカレン様はゆっくりと後ずさりし、目元に水分を浮かべた。
「許せない。あなたのことは……許せない……!」
その低い声には、純粋な恋心を弄ばれた者特有の深い憎悪が込められていた。
彼女は苦痛に顔を歪め、身を翻してその場から走り去っていく。
私は手すりに寄りかかり、遠ざかる彼女の背中を見送った。
まだ権力という美酒に酔いしれていた私は、彼女の残した言葉の重さに、この時はまだ何も気づいていなかった。
華やかな婚約の宴会が終わり、タロシア公爵邸での新しい日常生活が始まった。
豪華な寝室と、美味しい食事、そして恭しい使用人たち。
私が長年夢見ていた生活が現実のものとなった。
けれど、権力の酔いが完全に抜け、冷静な思考を取り戻した私は、急激な怯えに襲われ始めた。
静かな夜、豪華な天蓋付きのベッドで一人横になっていると、あの夜のベランダでの記憶が蘇る。
私は、なんて愚かなことをしてしまったのだろう。
ミカレン様は、この社交界で誰よりも清らかで、計算高く汚れた私にすら、本気で友情を向けてくれていた人だった。
カスト様との婚約を確定させた時点で、私の勝利は揺るぎないものになっていた。
彼女には何も知らせず、綺麗な思い出のまま終わらせておくことも十分に可能だったのだ。
それなのに、全てを、仮面を外した愚かで傲慢な私が自分から破壊してしまった。
「許せない」
ミカレン様が残したその言葉が、私の耳の奥で何度も反響する。
あれは、単なる敗者の捨て台詞だったのだろうか。
それとも、復讐の合図だったのだろうか。
確かに、社交の場では、私は大人しく可憐な令嬢の振る舞いを完璧にこなしている。
カスト様も、私に深い愛情と庇護欲を向けてくださっている。
でも、ミカレン様は伯爵家令嬢であり、何よりカスト様の幼馴染だ。
貴族社会における彼女の信頼と影響力は、貧しい男爵令嬢である私とは比較にならない。
もしミカレン様がバド伯爵家の権力を動かし、裏から手を回せば、未来の公爵の婚約者という皮を被っている私の正体など、すぐに疑念を持たれるだろう。
それに、周囲の貴族夫人たちも、表面上は祝福してくれているが、腹の底では貧乏貴族の娘が玉の輿に乗ったことを激しく嫉妬し、憎んでいるはずだ。
私が少しでも隙を見せれば、ハイエナのように群がり、私を引きずり下ろそうとするに違いない。
ベッドのシーツを強く握りしめ、私は全身を冷たい汗で濡らした。
その日から、私はより一層、カスト様への愛を偽るようになった。
恐怖を隠し、彼が求める「守るべき可憐な令嬢」を徹底的に演じ続ける。
彼が執務室で仕事をしている時は、温かい紅茶を淹れて差し入れに行き、彼の横顔を憧れの眼差しで見つめた。
彼が中庭を散歩する時は、少し遅れて後をつき、彼が振り返るたびに恥ずかしそうに微笑んだ。
何をしていても、常にカスト様のそばにいるよう努めた。
彼に私の愛情を疑わせる余地を一切与えず、同時に、ミカレン様が彼に接触する機会を物理的に奪うためだ。
カスト様は私の献身的な態度を喜び、私の髪を優しく撫でてくれた。
「サリスは本当に俺のことが好きなんだな。安心しろ、お前は俺が守る」
彼がそう言って抱きしめてくれるたび、私は心の中で安堵の息を吐き、同時に自身の浅ましさに冷や汗を流していた。
ただ、どれほど警戒していても、ずっと一緒にいることは不可能だ。
カスト様には次期公爵としての公務があり、私にも貴族の令嬢としての社交の義務がある。
ある日の午後、私は高位貴族の夫人たちが主催するお茶会に招かれ、数時間ほど邸宅を空けることになった。
お茶会では、私は完璧な笑顔を顔に貼り付け、夫人たちの自慢話に相槌を打ち、自身の幸福を慎ましやかに語った。
しかし、頭の中は常にタロシア邸にいるカスト様のことで一杯だった。
お茶会が終わり、馬車を急がせてタロシア邸に戻った私は、玄関で出迎えた執事にカスト様の所在を尋ねた。
「カスト様は執務室にいらっしゃいますか」
私が尋ねると、執事は少し申し訳なさそうな顔をした。
「申し訳ございません、サリス様。カスト様は先ほど、ミカレン・バド様からの急なお誘いを受け、外出されました」




