347.全部、計算でした
勝者としての余裕が、少しだけ調子に乗ることを許してしまった。
「ねえ、ミカレン様。知っていますか、私……」
静かな夜風に溶けるように、つい、隠しておくべき本音が口からこぼれ落ちてしまった。
「本当は、ミカレン様の弟君、バド伯爵家を狙っていたのです」
ミカレン様は一瞬、言葉の意味を理解できず、きょとんとした顔をした。
「……え? な、なんのこと?」
次の瞬間、彼女の身体が完全に硬直した。
繋いでいた手が、急激に温度を失っていくのが分かる。
しかし、もう権力の美酒と勝利の余韻に酔い切った私は、言葉を止めることができなかった。
口を突いて出る言葉は、私自身の才覚をひけらかすための、愚かで残酷な告白だ。
「私は、ミカレン様と、カスト様と初めてお会いした日のことを、今でもはっきりと覚えていますわ。あの日、私は実家の借金返済で追い詰められ、路地裏で恐ろしい男たちに囲まれ、乱暴されそうになっていましたわね」
ミカレン様は息を呑み、当時の凄惨な光景を思い出したのか、顔からスッと血の気を引かせた。
「でもね、ミカレン様」
私は彼女の目を真っ直ぐに見据える。
「あれはすべて、私の計算済みの行動だったのですわ」
ミカレン様の瞳孔が限界まで見開かれる。
「私がわざと、実家に金を貸し付けていた下品な貴族に声をかけ、もうお金は一切返せないと挑発し、怒らせたのです。彼らが暴力に訴えてくることは、完全に予測の範囲内でした」
私はあの日のことを思い出す。
汚い路地裏の匂い。
男たちの卑猥な笑い声。
服を乱暴に破られ、肌が冷たい空気に触れた時の感覚。
普通なら恐怖で泣き叫ぶ場面だ。
だが、あの時の私の頭の中は、氷のように冷たく澄み切っていた。
どうすれば一番可哀想に見えるか。
どの角度から見れば、涙が美しく光るか。
それだけを瞬時に計算し、悲劇のヒロインを完璧に演じきっていた。
「目的は、当時その周辺の視察によく訪れていた、ミカレン様の弟君の気を引き、私という存在に気づかせるためでしたの」
「だから、ミカレン様が、あろうことかカスト様を連れて私を助けに来てくださるなんてこと、全くの予想外でしたわ」
私は扇で口元を隠し、クスクスと笑う。
「当時の私は、ただミカレン様の弟君から、少し同情を集めて、囲ってもらいたいだけだったのに。もっと大きな獲物が、自ら罠に飛び込んできてくださったのですもの」
私の言葉を受信したミカレン様は、空気の足りない場所で喘ぐように、大きくヒュッと息を吸い込んだ。
「あなた……、一体何を言って……!」
声の震えが止まらない彼女の手から、私はゆっくりと自分の手を離した。
「ああ、ミカレン様。本当に、何度も何度も、私を助けてくださらなければ、私のような貧乏で価値のない女は、一生タロシア公爵家と関わることなどなかったでしょう」
私はベランダの冷たい石造りの手すりを撫でながら、歓喜の息を吐き出す。
「今の私には、もう絶対的な権力も、使い切れないほどの金も、貧困に怯えない自由も、何もかもが手に入ったのですもの」
ミカレン様は後ずさりし、背中を壁に打ち付けた。
長年信じてきた世界が、根底から崩れ去っていく音を、彼女自身が聞いているはずだ。
私が常に見せていた、控えめで、誰にでも優しく、カスト様を一途に慕う可憐な令嬢の姿。
それが全て、底辺から這い上がるための、血の滲むような計算と演技で構築された虚像であったという事実。
「あなたは……カストのことが好きで、付き合っていたのではなかったのか!?」
ミカレン様の声は、絶望の淵に落とされた者の悲鳴そのものだ。
純粋な愛情が、ただの金と権力への交換条件として扱われていたことへの激しい嫌悪と混乱。
私は彼女の言葉に対し、一切の罪悪感を持たずに微笑む。
「愛、ですか」
その単語の響きを口の中で転がしてみる。
「私には、そのような綺麗な感情はわかりませんわ。でも、愛している振りをすることは、とても得意ですの」
私はゆっくりとミカレン様に近づき、彼女の耳元で囁く。
「ご安心くださいませ。ミカレン様の分まで、私はカスト様に、たっぷりとお愛を捧げますわ」
その言葉が、純粋な彼女の心に致命的な一撃を与えたことを、私は正確に理解していた。
これでいい。
私は勝者であり、彼女は敗者なのだから。
「サリス……、あなたは……!」
ミカレン様の声帯から絞り出された声は、恐怖と戦慄に震えていた。
私はただ、可憐で美しい微笑みを彼女に向け続ける。
「これが、私です、ミカレン様。」
あなたの純粋さを踏み台にして、自らの手で未来をもぎ取った、泥まみれの女の本当の姿です。




