344.過去の悪夢
長男である兄は、ある男爵家の娘と政略結婚させられた。
その相手は、性格が非常に悪く、見た目も決して良いとは言えないご令嬢だった。
しかし、その家には豊富な資金があった。
兄は家の借金を肩代わりしてもらう条件で、実質的にその家へ婿入りという形で売られたのだ。
姉もまた、裕福な子爵家の当主の元へ、三番目の妾として差し出された。
正妻でもなく、二番目ですらない。
年老いた子爵の元へ送られていく日の朝、姉は真っ赤に泣き腫らした目で私を抱きしめた。
その姿を見て、私は自身の未来を正確に予測した。
私も大きくなれば、どこかの裕福な老人か、問題のある貴族の元へ借金返済の道具として売られる運命にある。
庶民に落ちぶれないために、愛する子供を金銭に換算し、爵位という見栄だけを守り抜く。
その貴族の生き方を、私は頭から否定することはできなかった。
理解はできる。
貴族の家に生まれた子供に、恋愛の自由や結婚の選択権など最初から用意されていない。
だからこそ、私は決意したのだ。
ただ黙って売られるのを待つ気はなかった。
どうせ売られるのなら、最高値で、しかも私自身が納得できる相手に売られたい。
私は幼い頃から必死に勉強をした。
本を読み、礼儀作法を身につけ、少しでも高く売れる『商品』になるために自らを磨き上げた。
そして、王家学院への進学を両親に直訴したのだ。
「お父様、お母様。私を王家学院へ通わせてください」
ボロボロの絨毯の上で、私は両親に向かって深く頭を下げた。
「馬鹿なことを言うな。学院の学費を払う余裕など、うちのどこにある」
父が不機嫌そうに手を振る。
「ええ。ですから、私は特待生としての優待枠を勝ち取ります。それなら学費は免除されます」
「しかし、制服や交際費はどうするのです。そんなお金はありませんよ」
母が泣きそうな声で反対する。
私は顔を上げ、両親の目を真っ直ぐに見つめた。
「成績上位を維持し、低級貴族という身分を利用して『勉学に励む健気な令嬢』という立場を確立します。王家学院には、大貴族の御曹司が多数在籍しています。ここでどこかの成金に私を売るよりも、学院で裕福な高級貴族を釣り上げた方が、アルバレス家にとって遥かに莫大な利益をもたらすはずです」
両親が息を呑む。
私はさらに言葉を畳み掛けた。
「その代わり、もし私が良い相手を見つけられず失敗した時は、父様たちの好きなように、どの方の妾にされても一切文句はございません」
その決死の覚悟とプレゼンテーションが実を結び、私は王家学院へ進学した。
自らの純潔と将来のすべての選択権を担保に差し出した私の覚悟に、両親もついに折れた。
その絶対の覚悟を背負い、私はただの低級貴族の娘として、勉強と良縁の確保という二つの目的を胸に、王家学院へ進学を果たしたのだ。
夜も眠らずに本を開き、社交の場では誰よりも美しく見えるよう笑顔の練習を繰り返した。
少しでも気を抜けば、即座にあの泥沼のような実家へ引き戻され、誰かの妾として惨めな生涯を終えることになる。
その恐怖が、私を突き動かす最大の原動力であった。
そして、やっと今。
私はカスト様という、王国の最高峰に位置する公爵家の未来を捕まえた。
私は今、この王国の頂点に近い場所に立っているのだ。
世界がこれほどまでに美しく、輝いて見えることを、私は今まで知らなかった。
金と権力、そして他者からの羨望。
それらが私の心を、甘いはちみつで満たしていく。
指先から足の先まで、甘い痺れが広がっていくのを感じた。
グラスの水面に映る顔が、満足げな笑みを浮かべている。
もう、誰も私を見下すことはできない。
私を嘲笑った者たちを、今度は私がこの高い場所から見下ろしてやるのだ。
サリス・アルバレスの本当の人生は、ここから始まる。
私は再び扇を広げ、周囲を取り囲む夫人たちへ向けて、完璧で美しい未来の公爵夫人の笑顔を振りまいた。




