第219話 捨て駒
王都の地下深く、重厚な石造りの壁に囲まれた闇組織の拠点。
黒檀の執務机の奥で、仕立ての良い暗色の衣服に身を包んだ幹部が、革張りの椅子に深く腰を下ろしていた。
右手の人差し指にはめられた大粒のルビーの指輪が、卓上の蝋燭の光を鈍く反射している。
鉄格子の扉が重い音を立てて開かれ、二人の屈強な男たちによって、血濡れの麻袋が石の床に投げ出された。
袋の口が解かれると、激しい血の匂いと、傷口が化膿し始めた腐臭が一気に室内の空気を汚染する。
転がり出たのは、数日前にガーナー領へ『1ヶ月分の薬』を届けに向かわせた、あの若いやせぎすの男であった。
男の顔面には、両目が存在すべき位置に黒く空虚な穴が開いており、乾いた血が頬に張り付いている。
左手の小指は根元から断ち切られ、右足の膝下も不自然な角度で切断され、粗末な布で縛られていた。
男は床の上で痙攣を繰り返し、歯の抜けた口から泡と涎を垂らしながら、途切れ途切れの音を絞り出している。
「……軍を、動かす……これ以上の、値上げは……皆殺しに、される……」
男の口から漏れるのは、ただ一つの強迫観念に支配された、狂乱の伝言であった。
十金貨一錠、三百金貨の支払いは呑む。
だが、これ以上一銅貨でも要求すれば、タロシア家の全私兵を動かし、一人残らず根絶やしにする。
幹部は背もたれから身を起こし、両肘を机の上に立てた。
ルビーの指輪をもう片方の手でゆっくりと回しながら、床で蠢く肉塊を見下ろす。
「ただの闇を知らぬ、綺麗な小娘だと思っていたが。かなり酷いことをしてくれたな」
幹部の声は低く、室内の空気を震わせた。
公爵家の温室で育ち、禁薬の快楽に溺れただけの愚かで脆弱な令嬢。
それが、彼がリリス・タロシアに対して抱いていた初期の評価であった。
正体と弱みを突きつければ、恐怖で泣き崩れ、言い値で金貨を差し出す素直な財布。
しかし、現実の彼女は、自らの破滅の恐怖に直面しながらも、即座に使い走りの肉体を解体し、明確な反撃の意思と軍事力による威嚇を突き返してきた。
そこにあるのは、自己の尊厳と生存のためならば、他者の肉体を平然と切り刻むことができる、絶対的な冷酷さと狂気。
幹部は視線を卓上の羊皮紙へ移した。
そこに記されているのは、タロシア公爵家が保有する私兵の数と、その練度の報告書。
裏社会に根を張る彼らの組織であっても、表の世界の頂点に君臨する大貴族の正規軍と正面から衝突すれば、三日と持たずに完全に消滅する。
彼女が正気を失い、自身の秘密が暴露されるリスクを度外視して軍事力を行使するという『玉砕』の選択をした場合、我々は到底公爵家の武力には敵わない。
限界点を見誤り、過剰な圧力をかければ、彼女は確実に牙を剥き、すべてを道連れに破滅の道を突き進む。
あの血濡れの男の姿が、その明確な証明であった。
幹部は短く息を吐き出し、ルビーの指輪の動きを止めた。
「この男を処分しろ。目障りだ」
幹部が顎をしゃくると、部下たちが再び男を袋に詰め込み、引きずって退出していく。
扉が閉まり、室内には重い沈黙と血の匂いだけが残された。
幹部は羽ペンを手に取り、羊皮紙の端にインクを走らせる。
これ以上の過剰な搾取と挑発は、組織の存続に関わる。
価格は現在の『一錠十金貨』を絶対の限度として固定し、彼女の限界線を超えないよう細心の注意を払う。
彼女を完全に追い詰めるのではなく、生かしさえずり、定期的に血を吸い上げる方針への転換。
「これ以上絞り出そうとすれば、玉砕されるかもしれない。だが……」
幹部の口元が、わずかに歪んだ弧を描く。
「未来の王妃であり、公爵令嬢である彼女の、致命的な弱みをすでに握っている。一錠十金貨でも、絶えない黄金が確実に生み出されるのだからな」
彼女が薬を断てない限り、毎日十金貨という莫大な富は約束されている。
幹部は羽ペンを置き、背もたれに深く体重を預け、冷たい石の天井を見上げた。




