第218話 脅迫
湿った土の匂いが立ち込める薄暗い小屋の中、ナミスの鋭利な刃先が男の首筋の皮膚を微かに押し込んでいる。
男の首から一筋の血が流れ落ち、汚れた襟元を赤く染めた。
男は全身を激しく震わせ、涙と泥に塗れた顔を歪めながら口を開いた。
「斬れるなら斬ればいい。でも、僕がここで死ねば、上との連絡は完全に絶たれる!」
男の声は裏返り、恐怖と自暴自棄が入り混じった甲高い音となって室内に反響する。
「薬の供給は止まる!お前は確実に狂って、その完璧な公爵令嬢の顔も崩れ落ちるんだ!僕を殺せば、お前も一緒に破滅するんだ!」
男の口から発せられたその言葉は、私の最も脆い部分を正確に貫いた。
視界が急速に色を失い、冷たい石の床が波打つ感覚に襲われる。
心臓が不規則な拍動を始め、呼吸が浅く速くなる。
薬が手に入らなくなる。
あの狂気と幻聴が、再び私を完全に支配する。
その想像がもたらす恐怖が、私の理性を内側から砕き始めた。
私は震える指先で外套の内側を探り、小さな硝子の瓶を取り出した。
瓶の蓋を開け、金色の錠剤を一錠、手のひらに転がす。
水すらないまま、私はその錠剤を喉の奥へと押し込み、力任せに飲み下した。
数秒の沈黙。
胃の底から甘美な熱が広がり、血流に乗って全身を駆け巡る。
視界に極彩色の光が戻り、先程までの恐慌状態が嘘のように消え去り、冷徹な思考が私の脳を支配した。
私は深く息を吸い込み、完全に静まり返った声で男を見下ろした。
「ナミス。その男の指を一本ずつ切り落としなさい。足の腱も切り裂いて構わないわ。彼が本当に何も知らないのか、確かめる必要があるの」
私の言葉に、ナミスは一切の躊躇を見せなかった。
彼は剣を首筋から離し、男の左手を掴んで土の床に押さえつける。
男が短い悲鳴を上げる暇もなく、ナミスの短剣が男の小指の関節を正確に断ち切った。
「ぎゃあっ!」
男の絶叫が狭い空間に響き渡り、大量の血が土を黒く染める。
男は痛みで身悶えし、土の上に転がりながら涙と涎に塗れて懇願した。
「知らない。本当に何も知らないんだ。僕はただ、この背嚢を届けて、あの言葉を伝えるためだけに雇われた。上の人間の顔も名前も知らないんだあぁ!許してくれ!!!」
男の瞳孔は開ききり、痛みによる生理的な痙攣が全身を支配している。
私は極彩色の視界の中で、男の表情と筋肉の動きを微細に観察する。
この激痛と恐怖の中で、計算された嘘をつける人間ではない。
彼は組織から使い捨ての駒として選ばれ、私の前に放り出されただけの存在だ。
「もう十分よ、ナミス。彼は本当に何も知らないわ」
私は平坦な声で指示を出し、ナミスは短剣を引いて立ち上がった。
私は男の傍らに転がった巨大な背嚢を見つめた。
組織は私の正体を知りながら、父であるカスト公爵や王家へ脅迫状を送ることはしなかった。
彼らの目的は、タロシア公爵家を揺るがすことではなく、私個人という莫大な資金源を確実に確保すること。
私の病理を盾に取り、私自身の意志で金貨を差し出させるための巧妙な盤面。
彼らは私が秘密を守るために、どれほどの代償でも払うと確信している。
私は背嚢の紐を掴み、その重さを手元で確認した。
1ヶ月分、三十日分の薬。
要求された額は三百金貨。
一ヶ月以内にこの莫大な現金を、タロシア家の帳簿に痕跡を残すことなく用意しなければならない。
私は極彩色の多幸感の中で、冷酷に数字を弾き出し、支払いの算段を完了させた。
「この薬は、私が受け取るわ」
私は男を見下ろし、顔を覆うヴェールの下で冷ややかに唇を開いた。
「ナミス。その男を殺しては駄目よ」
私の声は、甘美な毒を含んだように低く響く。
「その男の目を両方とも抉り出しなさい。そして、手と足も一本ずつ切り落として」
男の呼吸が止まり、顔面が完全に蒼白に染まる。
ナミスは無言で男の頭を掴み、短剣の柄を握り直した。
「やめろ!ぐあぁぁぁぁ!!」
男の悲鳴が再び小屋を震わせる中、私は動じることなく言葉を続ける。
「その男はただの捨て駒よ。生かしたまま、組織の元へ送り返しなさい」
私は床に広がる血の匂いを吸い込み、冷たい視線を男に向けた。
「そして、組織の者たちにこう伝えなさい。十金貨一錠、三百金貨の支払いは呑む。だが、これが私の限界よ。もしこれ以上、一銅貨でも値上げを要求するなら、タロシア家の全私兵を動かして、あなたたちを文字通り一人残らず根絶やしにしてあげる」
私の声は静寂の中で絶対的な意志を持ち、空間を支配した。
男の痙攣が続く中、私は背嚢をナミスに持たせ、振り返ることなく小屋の扉へと向かった。




