第212話 安心感
馬の四肢が乾いた土を力強く蹴り上げる。
速度が一段階上がり、周囲の荒野の景色が激しい速度で後方へと飛び去っていく。
正面から吹き付ける冷たい風が、私の灰色のドレスをばたつかせ、桜色の髪を容赦なく乱した。
鞍を握る両手には強い力が入り、心臓が肋骨を激しく叩き、
呼吸は浅く、そして異常なほど速くなっていた。
頬の表面に熱が集まり、冷たい風に晒されながらも皮膚の温度が上昇していく。
私は目を大きく見開き、揺れる視界の中で前方の地平線を直視した。
「リリス様」
並走するナミスの声が、風の音を切り裂いて届いた。
私は首を僅かに動かし、下を走る彼へ視線を向ける。
ナミスの栗色の瞳が、私の顔を真っ直ぐに捉えていた。
彼の視線は、私の乱れた髪や、赤く染まった頬、そして大きく見開かれた目の中の光を細部まで観察している。
金色の錠剤が強制的に引き出す極彩色の狂気ではなく、純粋な恐怖と物理的な刺激によって引き起こされた、血肉の通った生きた反応。
ナミスは手綱を引く右手に力を込め、口元を微かに緩めた。
彼の眼差しには、私という存在そのものに対する絶対的な肯定と、深く重い敬愛の色がはっきりと浮かんでいた。
「ナミス。もっと速くしなさい」
私の口から出た声は、風に負けない高い音域で響いた。
「これ以上の速度は、お体への負担が大きすぎます」
「構わないわ。私の体が耐えられなくなるまで、限界まで走らせるのよ」
私は鞍を握る両手により一層の力を込め、膝で馬の胴体を強く挟み込んだ。
「畏まりました。決して鞍から手を離さないでください」
ナミスが舌を鳴らし、馬への指示を変える。
獣の筋肉がさらに大きく躍動し、上下の揺れが一段と激しさを増した。
体が完全に宙に浮く感覚と、革の鞍に激しく叩きつけられる衝撃が連続して襲ってくる。
私は歯を食いしばり、必死に重心を保とうとした。
しかし、普段全く使わない太ももの内側や、腕の筋肉が急速に熱を持ち、強い痛みを訴え始める。
僅か数分の疾走。
私の呼吸は完全に乱れ、肺の奥が焼けるように熱い。
指先から感覚が抜け落ち、鞍を握る握力が限界に達した。
落ちる——そう思った瞬間、
視界の端に、ナミスの姿が映った。
「もう……無理……」
声にならないその言葉を、彼は確かに聞き取っていた。
私が声を絞り出した直後、ナミスが即座に手綱を引き、馬の速度を段階的に落としていった。
激しい揺れが収まり、やがて馬は完全に停止する。
私は鞍の上に上半身を倒し、荒い息を繰り返した。
張り詰めていた全身の力が、糸が切れたように抜け落ちていく。
指先に戻った微かな感覚とともに、遅れて震えが広がった。
落ちることはない。
そう理解した瞬間、視界の揺れがようやく収まり始める。
背後ではなく、すぐ隣にいる気配。
それが誰であるかを、確認する必要すらなかった。
私は目を閉じ、ただ呼吸を繰り返した。
馬車に揺られ、ガーナー領の領主館へ戻る間、私は口を開くことすらできなかった。
私室の重い扉が開き、石造りの冷たい壁に囲まれた空間に戻る。
ナミスに支えられながら寝台へ向かう私の足取りは、極度に重く、膝が何度も崩れそうになる。
私はそのまま寝台に倒れ込み、シーツの上に身を投げ出した。
全身の筋肉が鈍く痛み、骨の芯から重い疲労感が染み出している。
「リリス様、お召し物を」
「このままでいいわ……動けないの」
私は目を閉じたまま、掠れた声で答えた。
机の上に置かれた硝子瓶の存在や、明日の朝に半錠の薬を飲まなければならないという強迫観念。
私が抱える依存の恐怖や自己嫌悪の思考が入り込む余地は、この極限の肉体的疲労の前には完全に失われていた。
ナミスが私の体の上に、厚い毛布を静かに掛ける。
「よく耐え抜かれました。本日は、このままお休みください」
彼の低い声が耳に届く。
すぐ傍で響くその声音が、まだ僅かに残る体の震えを、内側から静かに押さえ込んでいく。
触れられているわけではないのに、彼がそこにいるというだけで、意識が緩んでいくのが分かった。
「ナミス……ありがとう」
私は微かに唇を動かし、その言葉を最後に意識の底へと沈み込んでいった。




