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第213話 彼がいる

目を覚ます。


石造りの天井。


冷たいシーツの感触。


身じろぎすると、太ももの内側と背中の筋肉に鋭い痛みが走る。


昨日の乗馬による過酷な疲労が、私の四肢に深く刻み込まれていた。


私はゆっくりと上体を起こし、寝台の端に腰を下ろす。


筋肉が熱を持ち、動かすたびに鈍い痛みを訴えかけてくる。


しかし、その痛みは私がこれまで抱えていた得体の知れない不安や、幻聴による精神的な苦痛とは性質が異なっていた。


純粋な身体の疲労であり、限界まで筋肉を酷使した結果生じた、明確な理由のある物理的な反応。


私が今、この現実の空間に肉体を持ち、呼吸をしているという事実を証明する痛覚。


私は自分の両手を見つめ、白く細い指先を何度か握り開いた。


机の上に置かれた小さな硝子瓶を引き寄せる。


中には鈍い金色の錠剤が残されている。


私は小刀を手に取り、一錠を硬い天板の上で二つに割った。


半錠を指でつまみ、湧き水と共に飲み下す。


冷たい水が喉を通り、胃の底に落ちる。


極彩色の多幸感は訪れない。


周囲の景色は灰色のまま、石壁の冷たさも、古びた家具の質感もそのままに保たれている。


だが、胸の奥底に常に渦巻いていた閉塞感や、薬が足りないことへの狂気じみた焦燥は、著しく薄れていた。


脳を掻き毟るようなノイズも、遠くでかすかに響く程度に留まっている。


昨日の荒野を駆け抜けた記憶。


冷たい風、上下に激しく揺れる視界、落馬への純粋な恐怖。


あの鮮烈な身体的刺激が、薬の成分を補い、私の精神を強引に現在へとつなぎ止める特効薬として機能している。


身支度を整え、執務室の机に向かう。


羊皮紙に目を落とすが、羽ペンを握る右手の筋肉が張り詰め、文字を書く動作がひどく重い。


私は羽ペンを置き、視線を上げた。


斜め後ろに直立するナミスを見る。


そこにいることが分かっているだけで、


無意識に張り詰めていた思考の一部が、僅かに緩む。


「ナミス。今日の政務は午前中のみとします」


私の声は平坦だが、昨日までの死に絶えたような沈鬱さは含まれていなかった。


ナミスは一歩前に進み、頭を下げた。


「畏まりました。午後の予定はいかがなさいましょうか」


「午後も、昨日と同じ場所へ行くわ」


私は彼を真っ直ぐに見据えた。


その視線の先に、確実に応じる存在がいるという前提。


それを疑う思考は、最初から存在していなかった。


「馬を用意しなさい。昨日よりも長く、速く走るつもりよ」


ナミスの栗色の瞳が、私の顔を静かに観察する。


私の表情、声の張り、そして僅かに強張った肩の筋肉の動き。


「リリス様。お体は酷く疲労し、筋肉に痛みが生じているはずです。本日は休息を取られるべきと考えます」


「痛みはあるわ。でも、この痛みがあるからこそ、私はあの狂気から目を逸らすことができるの」


私は机の縁を指でなぞりながら、視線を窓の外の灰色の空へ向けた。


「あの風を受け、落ちるかもしれない恐怖を感じている間は、自分が壊れた存在であるという思考が消える。私はあの感覚が必要なのよ。だから、馬を出しなさい」


ナミスは短く息を吐き、右手を胸に当てた。


「リリス様のお心が少しでも晴れるのであれば、僕が全力で支えます。ですが、お体の限界を超えないよう、速度と時間は僕が管理させていただきます」


彼の言葉に、わずかな抵抗も覚えなかった。


自分で判断するよりも、彼に委ねた方が正確であると、すでに身体が理解している。


私は窓から視線を戻し、再び彼を見た。


その一言を口にした瞬間、


自分の内側にあった緊張の芯が、静かに外れていく。


「ナミス。私をあの荒野へ連れて行ってちょうだい」


彼がいるなら、落とさない。

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