第201話 完璧な王妃
オレは窓辺に立ち、石畳の広場を行き交う領民たちの姿を見下ろしていた。
ここへ到着してから、数日が経過している。
視察という名目はとうに薄れ、オレの意識の大半は一人の令嬢へと向けられていた。
毎朝、オレはタロシア家の私兵の装束を身に纏い、リリスを伴って領内を歩き回る。
昼には彼女と共に粗末な黒パンを齧り、夕刻には南の丘へ馬車を走らせて果実水を傾けた。
共に過ごす時間は、王都での分刻みの公務とは全く異なる、緩やかで甘美な感覚をオレに与え続けていた。
窓枠に置いた右手に力を込める。
革手袋の表面が擦れ、鈍い音が鳴る。
彼女の姿が、オレの脳裏に鮮明に焼き付いている。
市場で商人たちと渡り合う時の、計算された隙のない視線。
領民の訴えに耳を傾ける時の、慈愛に満ちた柔らかな声。
そして、南の丘でオレの存在と意志を完全に肯定してくれた時の、あの完璧な微笑み。
そのすべてが、オレの胸の奥底で燻っていた渇望を満たしていく。
オレは背を向け、室内の中央に置かれた木製の椅子に腰を下ろした。
リリス・タロシア。
かつてオレが求めた「完璧な王妃」の形が、今、この辺境の地で完全に具現化している。
彼女の桜色の髪が風に揺れる光景、太陽の光を受けて輝く白い肌、そして少し動くたびに漂う甘い香りが、オレの思考を捕らえて離さない。
彼女の献身的な態度は、義務感から来る冷たいものではなく、純粋な歓喜に満ちている。
共に並んで歩く時の距離感、目と目が合った瞬間の瞳の揺れ、言葉を交わす際の細やかな気遣い。
それらはすべて、彼女がオレに対して絶対的な信頼を置いていることの証明だ。
オレの手が、彼女の冷たい指先を握りしめた時の感触が蘇る。
彼女は拒絶することなく、逆にオレの手を優しく握り返した。
その温もりが、今も右の掌に残っている。
彼女こそが、メニア王国の次期王妃として、オレの隣に立つべき唯一の女性だ。
その確信が、日を追うごとに強固なものとなっていく。
だが、オレの内に一つの疑問が渦巻いていた。
視線を床の木目に落とし、眉間を寄せる。
王都にいた頃のリリスは、今とは全く異なっていた。
彼女は常に完璧な令嬢を演じていたが、その言動の端々には重く冷たい暗影が付き纏っていた。
試験で倒れた時の、あの青ざめた顔。
そして、自ら手首を切り裂き、血を流し、死を恐れて震えていたあの痛ましい姿。
あの時の彼女は、精神の極限に立たされ、いつ崩れ落ちてもおかしくないほどの危うさを抱えていた。
オレは彼女の醜聞を隠蔽し、父王に虚偽の報告までして彼女を守ろうとした。
あの深く傷つき、悲壮感に満ちていた令嬢が、なぜこれほどまでに劇的な変貌を遂げたのか。
環境の変化や、領地統治による自信だけでは説明がつかないほどの、異常なまでの明るさと輝き。
オレは椅子から立ち上がり、再び窓辺へと歩み寄った。
彼女の精神を縛り付けていた鎖は、何によって断ち切られたのか。
オレが送り出したこの辺境の地が、彼女に何らかの治癒をもたらしたことは間違いない。
あるいは、王都の喧騒やタロシア家の複雑な内情から引き離されたことで、彼女本来の強靭な精神力が蘇った結果なのかもしれない。
オレがエリナを庇い、彼女に虚偽の手紙を送り続けた事実は、今の彼女には一切影響を与えていない。
彼女はオレの嘘に気づいていないか、あるいはすべてを受け入れた上で、オレを許し、愛してくれている。
そう結論づけることで、オレの胸を微かに刺す罪悪感は静かに溶けていく。
扉を叩く音が室内に響いた。
「殿下。リリス様が、本日の視察の準備を整えてお待ちでございます」
護衛のザロの声だ。
オレは革鎧の襟元を正し、扉へと向かった。
理由が何であれ、今のリリスは極めて美しく、オレの心を強く惹きつけている。
あの輝く笑顔を、そして彼女自身を、もう二度と手放すつもりはない。
「今行く」
オレは短く答え、重い木扉を押し開けた。




