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第200話 偽りの光

南の丘から街道へと下る細い道を歩んでいたその時、空の様相が急変した。


重く垂れ込めた暗雲が月光を完全に覆い隠し、冷たい風が強く吹き抜ける。


その直後、大粒の雨が音を立てて大地を打ち据え始めた。


カシリア殿下が足を止め、視線を空から私へと移した。


「しまった、傘を持ってきていない。馬車へ急ぐぞ」


雨粒が私の桜色の髪を濡らし、薄い布地のドレスに冷たい染みを作り始めている。


私は肩をすくめ、視線を伏せた。


「申し訳ございません。私が雨の予兆を読み取れず、このような事態を招きましたわ」


「何を言っている。天候の変化はリリスと関係ない。謝る必要はない」


カシリア殿下は短い言葉を発し、歩みを早める。


私は彼の後を追おうと足を動かすが、足元を覆う長いスカートが泥を含んで重くなり、歩幅を制限する。


日常的な鍛錬を欠いた私の体は、斜面を駆け下りる動作に耐えきれず、すぐに呼吸が浅く荒くなった。


心臓が肋骨を打ち、足がもつれそうになる。


その時、前を歩いていたカシリア殿下が振り返り、自らが羽織っていた厚手のコートを素早く脱ぎ去った。


彼はそのまま私の元へ歩み寄り、濡れ始めた私の肩へその重い布地を覆い被せる。


彼の体温が残る厚い生地が、冷風を遮断した。


「殿下……。ありがとうございます」


私は目を見開き、コートの襟元を両手で握りしめた。


街道に停められた馬車の周囲では、雨に打たれながら待機する数名の近衛騎士たちの姿があった。


私たちが駆け寄ると、カシリア殿下が扉を開け、私を先に乗降口へ促す。


「タオルを持ってこい。早くしろ」


彼が鋭い声で騎士に命じるのを聞きながら、私は車内へ身を滑り込ませた。


扉が閉まると、外の激しい雨音は遠く鈍い響きへと変わる。


車内に灯された蝋燭の淡い光が、向かいの座席に腰を下ろすカシリア殿下の姿を照らしていた。


私はコートに包まれながら、自身の姿の乱れを自覚する。


雨水を含んだ髪が頬に張り付き、ドレスの裾が泥に汚れている。


これは、タロシア公爵家の令嬢として、他者の前に晒すべき姿ではない。


私が濡れた髪を整えようと指を動かした時、扉が僅かに開き、騎士が乾いた厚手の布を差し入れた。


カシリア殿下はそれを受け取り、一枚を自分の濡れた髪に押し当てた後、もう一枚を広げて私の隣へと腰を下ろした。


彼の腕が伸び、私の頭に布が乗せられる。


彼の手が布越しに私の髪を撫で、水気を吸い取り始めた。


「殿下……。それは、私自身でやりますわ」


私は身を縮め、布を持つ彼の手を止めようと指を伸ばした。


「いいから。俺が夜景を見たいと言って君を外へ連れ出し、濡らしたんだ。これくらいはさせてくれ」


彼の声は低く、平素の威厳とは異なる柔らかさを帯びていた。


「……はい。ありがとうございます」


私は抵抗を諦め、膝の上で両手を重ねて視線を落とした。


カシリア殿下の手が、私の髪から首筋へと滑り、優しく水分を拭い取っていく。


彼の指先が私の冷たい肌に触れるたび、微かな熱が伝わってくる。


彼がこれほどまでに無防備な優しさを見せる人であったとは、知らなかった。


前世の記憶を辿っても、彼からこのような扱いを受けたことは一度もない。


私を気遣い、雨から庇い、自らの手で濡れた髪を拭う。


その優しさがあるからこそ、彼は私を庇うために婚約者という立場を受け入れてくれたのだ。


エリナの存在を隠し、私に嘘の手紙を送ったのも、彼なりの不器用な優しさであったことが、今の私には理解できる。


彼が私を騙し続けるつもりであるなら、最後までその仮面を被り続けてほしい。


それは、彼が背負う重圧を思えば、あまりにも厚かましい願いである。


もしかつての私であったなら、この密室での優しさに心を乱され、彼に縋り付いていただろう。


彼の腕の中に身を委ね、その温もりに永遠を求めていたはずだ。


しかし、今の私の奥には、鈍く光る金色の錠剤が沈殿している。


私の視界は極彩色に彩られ、一切の欠落を感じていない。


カシリア殿下の手が動きを止めた。


「もう少し、拭かせてくれ」


彼の声が車内に響く。


「……はい」


私は短く返答した。


この暗い車内でも、私の視界は極彩色に彩られ、満ち足りた静寂が支配していた。


私の世界を支え、私を完全に肯定し、安らぎを与えるもの。


それは、カシリア殿下の優しさでも、王太子妃という栄誉でもない。


十銀貨の金色の錠剤がもたらす、完璧な偽りの光だ。

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