第198話 月の姫
カシリア殿下の瞳が、微かに揺れ動いた。
オレの心臓の鼓動が早まり、革手袋越しに握りしめた拳の関節が軋む音を立てた。
彼女の言葉がもたらした衝撃は、オレの全身の血流を熱くさせている。
オレは小さく息を吐き出し、乱れた呼吸を整えた。
「リリス。君が改革してくれた、この領地の夜の姿も見てみたくなった」
オレは彼女の桜色の髪から視線を外し、窓の外へと目を向けた。
日は既に落ち、空は深い藍色に染まり始めている。
「オレを案内してくれないか」
リリスは静かに立ち上がり、ドレスの裾を整えた。
彼女の口角が上がり、完璧な曲線を描く。
「ええ、喜んで。何処へなりとも、お供いたしますわ」
その滑らかな声色は、夜の冷たい空気を柔らかく溶かす響きを持っていた。
オレは立ち上がり、彼女の後に続いて執務室を後にした。
薄闇に包まれた南の丘。
オレとリリスは並んで立ち、眼下に広がるガーナー領の街並みを見下ろしていた。
昼間の活気は形を変え、無数の灯火が点在する光景へと変貌を遂げている。
建物の窓から漏れる黄色い光、街路を照らす松明の炎。
それらが密集し、暗闇の中で規則的な瞬きを繰り返している。
冷涼な夜風が吹き抜け、彼女の長い髪を揺らした。
「君のお陰で、本当に賑やかな街になったな」
オレは眼下の光景から彼女の横顔へと視線を移した。
「あの光の数だけ、民の生活が確かに息づいている」
オレの言葉に対し、リリスは視線を街の灯りに向けたまま、静かに目を伏せた。
「いいえ。私はただ、あの火災という契機を利用し、改革を推し進めたに過ぎませんわ」
リリスの声には驕りも自嘲もなく、ただ淡々と事実を述べる響きがあった。
しかし、その実態は、リリスが自らの手で食糧庫を焼き払い、古い体制を灰燼に帰した結果だ。
それを、カシリアは知らなかった。
カシリアは彼女の言葉を謙遜と受け取り、深く頷いた。
雲が切れ、銀色の月光が丘の上へ降り注いだ。
その光はリリスの白い肌を照らし出し、桜色の髪に淡い輝きを与えている。
彼女が顔を上げ、オレの方を向いた。
その瞳には、下界の無数の灯火と、空の冷たい光が同時に宿っている。
口元には微かな笑みが浮かび、静寂な夜の風景と完全に同化していた。
オレは呼吸を止め、彼女の姿に視線を固定した。
鼓動が耳の奥で大きく響き、指先が微かに震える。
王都にいた頃のエリナは、周囲の闇を完全に払拭する強烈な光を放っていた。
彼女が笑えば、そこがどのような場所であっても、活気に満ちた空間へと変化した。
しかし、目の前にいるリリスは違う。
彼女は闇を消し去るのではなく、闇の中に静かに佇み、周囲の冷たさを柔らかく受け入れている。
その静謐な美しさは、視覚を奪い、思考を停止させる力を持っていた。
彼女が放つ冷たい光は、オレの心に深く入り込み、熱を帯びた感情を引き出していく。
「殿下、夜風が冷たくなってまいりましたわ」
リリスが静かに口を開き、その声がオレの鼓膜を震わせた。
オレは硬直していた身体の力を抜き、小さく息を吸い込んだ。
「ああ。そうだな」
オレは短く答え、彼女から目を逸らすことができなかった。
オレが求めていたものは、誰もがひれ伏す強烈な熱量ではなく、オレの孤独を理解し、共に闇を見つめてくれる静かな光だったのだ。
彼女がオレに向けた肯定の言葉と、この夜の丘で見せる一切の陰りを持たない微笑み。
それらがオレの胸の奥で結びつき、明確な形を持って定着していく。
王太子としての重圧に押し潰されそうになっていたオレを、彼女は救い上げた。
オレの視界には、月光を浴びて立つ彼女の姿しか存在しない。




