08 覚悟と友情
一度覚悟を決めてしまえば、余計な思考に囚われずに済む分、気が楽になった。後はもうシグリットを支える事、その一点に心を砕くだけでいい。まだ今の状況で直接愛を囁くような真似はするつもりもないが、いずれはこの気持ちを打ち明けるつもりだ。
寝台に腰掛けていつものカウンセリングを受ける彼女を見下ろす。
彼女の体内に残された二体の思念体を祓うにはまだ相応の時間がかかるらしい。シグリット自身は少しずつではあるが、辛い過去を消化して前向きに物事を考えるようになってきてはいるものの、二人の娘の怨念は執念深く、彼女の心の奥底に纏わりついて離れようとはしないのだ。
「……ん」
シグリットが苦しげな吐息を漏らした。咄嗟にその肩を支える。ざわりと不快な気配がその身体から滲み出し、華奢な身体の表面を悍ましい昏い焔で焼き始める。彼女の噛み締めた唇の奥から苦鳴が漏れ、エルドリートは彼女を支える手に思わず力を込めた。独りではない、側に居る、そう励ますように手を強く握り締めてやる。縋るように握り返される手。白騎士らが四人がかりで退魔の印を切って悪しき思念体を押さえつけた。悔しげに触手をくねらせながら、発現した呪いは彼女の体内へと戻って行く。
明るい場所へ帰ろうとするシグリットを引き留め闇に沈めようとするかのように、治療中にもこうして呪いは顔を覗かせる。彼女を殺してまで手に入れんと欲した一人の男への醜く凄まじき情念。そこまでして本当に男を手に入れられると本気で思っていたのだろうか。それで、本当に幸せになれると思っていたのだろうか。
婚儀を目前にしてこんな醜いものに憑りつかれて命を落とし、愛する女に永久に心身を削り続けるような呪いを掛けられた大伯父の無念は如何ばかりか。否、無念という言葉すら生温い。エルドリートはユリウスの凄惨な最期を思い、胸にじっとりと湧き上がる不快な感覚に奥歯を噛み締めた。
呪いの苦痛から解放されて弛緩するシグリットの身体を抱き留める。長年の辛苦で消耗したその身体は、それでも以前と比べると僅かながらもふっくらして柔らかさを増していた。回復の兆しは見えている。囚われた過去の辛い想い出と、其処に棲みつく思念体を剥離するための治療はこうして苦痛を伴うが、それでも彼女自身がそれに耐えてでも治療に前向きなのは、治療に手応えを感じているからなのだろう。
「……ありがとう。もう大丈夫だよ、エルド」
抱き留められたままの体勢が気恥ずかしいのか、シグリットが身体を捩った。そっと身体を離すと、こちらを見上げる彼女と視線が合う。目を細めて笑いかけると、彼女は少しだけ目を見開いてから、ふわりと笑った。このところ、シグリットはこうして柔らかく笑う事が多くなった。以前のようなどこか遠慮がちなものではなく、心からの微笑みは見る者を惹き付けた。
(これは確かに、健康を取り戻して外に出るようになったら、言い寄る男は増えるかもしれないな)
その事に焦りを感じないわけではない。ただ、多分今最も彼女に近い位置に居るのが自分だという自負もあった。彼女が自分に頼る素振りを見せるようにもなったからだ。差し出す手も躊躇わずに握り返すようになった。たったそれだけの事だったが、それでもひどく嬉しかった。
『側に居て励ましてやるのも、今の彼女には大事なことだ。何十年もずっと独りで耐えて来たんだ。お前さんは十分役に立ってるよ』
かつて、マティアスに言われた言葉は真実だった。治療に何一つ手を貸すことの出来ない己でも、彼女の支えになれる。そして、もし、このまま彼女の心の拠り所になれるのなら。
「……今日はここまでにしておこう。治療の経過は順調だよ。発現した症状も抑えるのが容易になってきたからね。そろそろ次の段階に進んでも良いかもしれない」
アルベールの言葉に期待半分不安半分といった様子のシグリットの背を撫でてやる。
「この間の城内の散策の様子を見た限りでは問題無さそうだからね。今度は外に出ての治療をしてみようか。そんなに構えなくても大丈夫だよ。今度のもなるべく負担にならないように、段階的にやっていくから」
アルベールが治療方針を説明していく。事件の現場や近い状況に敢えて接近し、それに慣れて行くことで症状を改善していくのだという。事件当時の記憶を「消化」していくことが出来れば、彼女の体内に巣食った思念体も拠り所を無くして存在を保てなくなる。そうすれば、解呪出来る。
「……そういうことなら、丁度良かった。僕からも提案――というか、少しお願いがあるんだ。カルラ殿も一緒にいいかい」
ベルトルドが口を挟む。ここから先の話は男性陣にはあまり関りの無い話らしい。シグリットとカルラ、そして主治医のアルベールをその場に残し、エルドリートはマティアスらと共に一足先に控室へと戻る事にした。
「――初めて彼女の呪いを目の当たりにした時は本当に解呪出来るのかと心配しましたが……」
誰に言うでもなくトマスがぽつりと言った。
「あの頃に比べると随分健康的になりましたね」
「……そうだな。本当に」
オスティーユで見たシグリットは顔色も病的に青白く、一目で何処か患っていると分かる様相だった。だが、今では頬が健康的に色付いて、彼女の持つ優しく柔らかい印象がより増していた。治療が順調な証拠だ。完治したらどれだけ魅力的な女になるのだろう。
「変わったと言えばお前さんもだ、エルド」
マティアスが話題の矛先をこちらに変えた。
「お前さん、このところ彼女への態度を隠さなくなったな? 前はもうちょっとはっきりしろよとは思ってたが、最近じゃむしろ見てるこっちが恥ずかしい」
「――そこまで変わったつもりもねぇよ。そんなに違うか?」
「そうですねぇ、態度自体はそれほど変わったわけじゃないですけど、なんというか前と比べると堂々とされてますね」
確かにシグリットへの気持ちを今まではどこかで誤魔化す事も多かったが、それほど分かりやすく変わっただろうかとエルドリートは苦笑した。
「そうだなぁ、色々と覚悟が決まったってことかな」
「そりゃ結構なことだが、一体どういう心境の変化だ」
「それは……」
言うべきか否か逡巡したが、いずれは言わなければならないだろう。
「――強い因果みたいなもんを感じから、かな。ユリウス・キストラーは俺の大伯父だった。彼は父方の祖母の兄だ。この間調べて分かったんだ」
驚愕で声を無くした二人に向き合う。
「ようやく合点がいったんだ。祖母の語る御伽噺が何故あそこまで心を打ったのか。あの御伽噺がどういう思いで作られたのか、あれを語り継いで来た奴らが何を願い続けたのかに思い至ったら……曖昧な態度で居る訳にはいかないと思ったんだ」
「……それ、殿下は御存知なのか」
ようやく衝撃から立ち直ったらしいマティアスが訊いた。
「確かめてはいないが、多分知ってる――だろうな。だとすれば俺がここに居るのも偶然じゃねぇだろう。正直仕組まれた感は否めんが」
苦笑して見せる。もしかしたら、ベルトルドとの友情すら彼自身の手によって仕組まれたものではないかという疑念を覚えて、その事に一抹の寂しさを感じた。エルドリートの心中を察したのか、マティアスは微妙な顔をした。
「――その件に関しては、後でちゃんと殿下と話し合えよ。なるべく早いうちにだ。因果はあるにしても、殿下との友情を疑うなよ」
何かを知ってでもいるのか、妙に強い物言いが気にはなったが、頷いておいた。
「そうだな。あいつは腹黒いところもあるが、根は優しい、いい奴なんだ」
ここのところはゆっくり話す機会も無かった。偶にはこちらから誘って、語り明かすのもいいだろう。扉の向こうに居る親友の姿を思い起こしながら、そう思った。




