07 大伯父
朝。まだ早朝の爽やかさの残る中、兵舎から本部を繋ぐ渡り廊下を歩く。中庭には始業前の自主鍛錬に励む騎士らが熱心に剣を振るっていた。顔を知る何人かが鍛錬の手を休め、片手を上げて挨拶を飛ばして寄越す。それにこちらも返してから、本部に足を踏み入れた。第三分隊詰所の扉を開くと、既に出勤した騎士らが振り返る。
「分隊長!」
「お久しぶりっすー」
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
王都に帰還してからは合間を縫って週に一度は顔を見せているとは言え、長期間の留守とあって申し訳無くも思うのだが、気の良い部下達は変わらぬ様子で接してくれる。
手元の書類から板書に日程を書き写していたらしい副官がこちらに気付き、仕事の手を休めてこちらに歩み寄って来た。
「お疲れ様です。休暇ですか」
騎士服ではなく、身に沿うシャツにベストを羽織り、その上から愛剣を通した腰当を付けるだけという軽装姿を見て副官のカミルが言った。
「ああ。悪いな、留守を預けたままだってのに」
「いえ、お気になさらず。あれからずっと詰めっ放しだったのでしょう。どうかゆっくりお休みください」
「すまないな……っと、そうだ。これ、休憩の時にでも皆で食ってくれ」
品の良い包装の菓子箱を差し出す。甘さを抑えたチョコレートの生地に塩気の効いた木の実がぎっしりと詰まったそれは、男の口にも合うはずだった。王室御用達の老舗菓子店のその焼菓子はベルトルドの好物で、時折軽食代わりに食べていたのを思い出し、部下達への差し入れにと昨日使いを出して買わせて来たのだ。
「おや、ドロティーアの焼菓子ですね。お気遣いありがとうございます。後で皆で頂きますよ」
紙箱に箔押しされた店名を目敏く見つけ、カミルは笑う。それからエルドリートとの距離を少しだけ詰めて声を潜めた。
「……お前、一部で噂になってるぞ。黒髪の御婦人と懇ろらしいってな」
砕けた口調は私事の会話の合図だ。カミルの言葉に思わず目を剥いた。こちらも潜めた声で返す。
「どっから漏れてんだよその話。あのな、その女は今回の護衛対象だ。別にまだ何もねーよ」
「まだ! まだって言ったよこいつ」
カミルに言葉尻を捕まえて突っ込まれ、苦虫を噛み潰した。カミルは思案気に顎に指を当てて考え込む仕草をして見せる。
「そうか。御相手はエルドだったか。医療棟に囲われている御婦人の御相手が殿下なのかその親友殿なのかで、今意見が割れてるんだ。そうかそうか。エルドかぁ」
「やめろ。というかその話、どこまで漏れてんだ」
「まだほんの一部だ。上層部だけだよ。さすがに下までは広がってない。とは言え、王都の最優良物件ツートップが今の今まで浮いた話題の一つも無かったってのに、ここに来て女の影だぞ。噂にならんわけがないだろう」
「なんだよそのツートップってのは……あのなあ、彼女はある事件の被害者で、後遺症の治療に来てるんだ。あんまり騒ぎ立てて彼女の負担になるような事だけはやめてくれよ」
カミルは愉快そうな笑みを引っ込めると、次は柔らかく笑った。
「……なんとなくお前がその御婦人を大事にしてるってのはわかったよ。心配するな、王家の御客人をネタにゴシップをばら撒くような馬鹿は上層部には居ないさ。ともかく、こっちの事は心配しなくてもいいから、さっさと休暇に入れよ」
副官に追い出されるようにして見送られて詰所を出ると、その足で資料部に向かった。既に閲覧許可は取ってある。資料部勤務の騎士はこちらに気付くと、入室管理表への記入を促した。指示通りに必要事項を書き記し、資料部へ足を踏み入れる。
「閲覧希望の資料ですが、随分古い物ですからね。年代ごとに纏めて地下書庫に収めてありますから、そちらでご覧になってください。明かりは点けてありますので」
騎士に礼を言い地下倉庫に降りると、微かに黴臭い空気が鼻を掠めた。上の資料庫とは違い、数十年以上を経過した資料を納めた倉庫は滅多に人も入らないらしく、通路には僅かに埃の積もっているのが見えた。棚に貼り付けられた年代表示を頼りに目的の資料の保管場所を探す。
(――ここか)
六十一年前の資料が収められている棚。当時の日誌や事件記録等の資料の中から団員名簿を抜き出し、初めのページから繰っていく。目的の人物の階級は上から二番目。直ぐに見つかった。その年の途中での昇進だったらしく、別の騎士の名前を上書きするような形で書き加えられている。
「……ユリウス・キストラー。副団長。二十四歳……」
だがそれも、色褪せた赤のインクで打ち消し線が引かれて「戦死」と書き添えられ、その上更にそれを雑に塗りつぶし、異なる筆跡で「謀殺」と上書きされている。在任期間は凡そ三ヶ月。あまりにも短い。出世し、婚儀を控えた身で迎えた唐突な死。その死の瞬間に彼は何を思っただろうか。
ぱらぱらと後ろの頁も繰ってみると、赤線で消された名前があちこちに散見された。戦死、戦死、戦死……。きっと、黒の森での殉職者達なのだろう。
当時の人々に想いを馳せ、暫し考えに耽る。それからユリウスの生家、キストラー家の所在地を手持ちのメモに書き写し、名簿を棚に戻した。知りたい情報は入手した。次の場所へ向かおうとして、ふと興味本位に翌年の棚から団員名簿を取り出す。数頁をめくると、その名前が見つかった。やはり、赤線が引かれている。
「ディートリヒ・アウフレヒト。赤騎士団第三分隊副隊長。二十九歳。重大な軍規違反により除名処分後、処刑……」
長い溜息を吐き、名簿を閉じて棚に押し込む。
――事件は決して物語などではなく、実際に起きたものなのだと改めて思い知った。
「もうよろしいのですか」
思ったよりも早い退出に驚かれてしまったが、必要な情報はもう入手した。些末な事に手間を取らせた事を詫びて、資料室を後にする。
騎士団本部を抜け、隣接する王城との境目にある城門で入城許可証を提示すると、立哨の騎士に苦笑された。
「エルドリート殿なら顔パスで入れますよ」
「今日は私的な用件で入るからな。ちゃんと手順を踏んで入るさ」
そんな台詞と共に労いの言葉を掛け、行政区画の先に向かった。国内随一の蔵書量を誇る王宮図書館。手続きは面倒ではあるが、身分証明と入城許可証、そして入館許可証を揃えれば一般でも立ち入る事が許される場所だ。受付で証明書類を提出して入館する。
書籍数約二百万冊とも言われているこの図書館で、目的の書物を一から探し出すのは困難だ。司書に在り処を訪ねると、場所を指差して教えてくれた。一階の奥の棚。最新のものから過去のものまで現存する全ての貴族年鑑を収めた棚だ。古い物ほど所々が紛失して抜けているようだったが、幸いにして、調べたい年代のものは全て揃っていた。六十年前の年鑑を取る。
――ユリウスの姓、キストラーの家名を聞いた時、ふと引っ掛かるものを感じたのを覚えている。どこかで聞いた事がある気がする家名だと。だが、キストラーの家名を持つ貴族家は知っている限りでも数件ある、あまり珍しくはない家名だ。だから、その時はたいして気にも留めずに聞き流していた。
そして、シグリットが語った過去の話に出た、ある一つの名。それもまた、リーズカンドではありふれた名だった。
だが。
『髪の毛とか後ろ姿が似てるから、遠目に見た時に一瞬、どきっとする』
この己の髪と後ろ姿が、ユリウスによく似ているとシグリットは言った。この事実と、どこかで聞き覚えのある家名、そして、ある女の名前。そこからあるひとつの疑念を抱いた。まさかとは思ったが、しかしもう確かめずには居られなかった。
分厚い年鑑の頁を繰り、キストラー家の記述を見つける。騎士団本部の資料庫でメモ書きしたユリウスの生家の所在地と照らし合わせ、該当する一つの家を見つけ出した。ユリウス・キストラーの名と共に生没年、勤め先、最終階級等が記載されている。間違いない。この家だ。家族構成を見る。最下段に記載された名。
ソフィネル・キストラー。シグリットを義姉様と呼んで慕ったという、ユリウスの妹の名だ。
それが記載されたページをそのままに、その後数年分の年鑑を順繰りに確かめて、ついに見つける。
――ソフィネル・キストラー、ゼーベック家に輿入れ。
嫁ぎ先の相手の名は、ヴァルター・ゼーベック。己の、祖父の名。ゼーベック家の所在地も確かめて、もう、間違いないのだと確信した。
ソフィネルはありふれた名だ。祖母の名もまたソフィネルだった。だから、シグリットの過去の話でその名が出た時も、ああ同じ名前だな、としか思わなかった。
年鑑を持つ手が震えた。ひとつ、大きく深呼吸し、それから片手で目を覆って天井を仰ぐ。
――少年時代に一度だけ祖母から聞いた事があった。確か、親族が集まって、両親や祖父母の兄弟の話が話題に上った時だったと記憶している。その時に祖母――ソフィネルは言ったのだ。ずっと昔、若くして不幸な亡くなり方をした兄が居るのだと。
『エルドの髪は、兄様によく似ているわ』
余程悲しい出来事だったのだろう。己の髪を撫でながらそう言った時の顔が、ひどく痛みの残るような表情で。触れてはならない話題だったのかもしれない。それ以上、詳しい話を聞く事など出来なかった。その、亡くなった兄の名すら。
そうだ。キストラーは祖母の旧姓だった。そして年鑑を調べて知り得た事実、祖母の兄の名は、ユリウスだった。ユリウス・キストラーは――。
(……俺の、大伯父だったのか)
御伽噺は、祖母の兄と、そして彼女が義姉様と呼んで慕った女の物語だった。祖母が御伽噺を語る時、あれほどまでに真に迫った語り口だったのは、そういう訳だったのだ。だからこそ、あれほどまでに心を打った。強く、己の心に根差した。
『かわいそうな魔女を、いつか僕は助けるんだ!』
そう言った時の、祖母の顔。目を細めてどこか遠くを見るような、ひどく悲しげな微笑み。
『なら、いつか貴方が魔女を探しておあげなさい。きっと、誰かが助けに来てくれるのを待っているわ』
そう言いながら、死んだ彼女の兄によく似ているという、この亜麻色の癖毛を撫でて。一体どれほどの想いを込めて、あの言葉を口にしたのだろう。
(おばあ様。俺は、必ず――)
解呪の役目は己には無理だ。だが、支えてやれる。寂しい場所から引き上げてやれる。側に居る。彼女を、
(必ず、助ける)
瑠璃色の瞳に、強い光が灯る。
もう、彼女への想いに、迷いは、無い。
ようやく書きたかったシーンのひとつが書けました。
貴族年鑑のいい資料が見つからない……




