EP0 ある事件関係者の独白「エリザヴェータ」
――シグリットが、消えた。
その報せが届いたのは、朝晩の空気も冷え、木々が鮮やかに色付く季節のある朝のことだった。ジークは既に公務のために執務室へ向かい、わたくしも孤児院と王立学院の視察の支度をしていた時だった。侍女に取り次がれて駆け込んできた王太子補佐官のただならぬ様子に、このところ心労で体調の思わしく無い様子だったジークに何かあったのではと息を飲んだのだけれど、伝えられた言葉はある意味それ以上の衝撃を与えるものだった。
「陛下が執務室でお待ちです。殿下もそちらにいらっしゃいます。急ぎ、おいで下さい」
補佐官に先導されて入った陛下の執務室では、既に集まった方々が険しい顔で執務机を取り囲んでいた。机の上には何度も読み返されたような跡の残る古い書物と、真新しい書類の束、そして、何通かの封書。それは、オルファレイス子爵の遺した研究資料と、シグリットの纏めた研究資料、わたくし達に宛てて書かれた手紙だった。
「……君宛の手紙だ」
蒼白を通り越して土気色になったジークはわたくしに一通の手紙を手渡すと、憔悴しきった顔を隠そうともせずにソファの背凭れに身体を預けてしまった。
(――本当に倒れなければ良いのだけれど)
こんな時なのに、奇妙に冷静にそんな事を考えた。あまりにも衝撃が強過ぎて、心が麻痺してしまったのかもしれない。そうでなければわたくしも――到底正気を保っていられる自信など無かった。立場を考えれば私事で顔に出る程落ち込んでも居られないのだけれども、この半年で起きた悲しい出来事はそれほどまでにわたくし達の心を蝕んでいた。
わたくし達の大切な二人の友人の訃報と失踪。つい数ヶ月前に二人の婚約を祝ったばかりだというのに、あれから一年も経たないうちに一人は戦死し、一人は病気療養の果てに恐ろしい呪いを受け、そして、失踪した。
報告を受けたジークが病室に駆け付けて彼女の不在を確認し、その足でシグリットの部屋に向かい、そこでこの書類と手紙を見つけたのだと言った。
彼女の失踪が発覚したのは朝食の配膳時だったという。にも関わらず報告が数時間も遅れたのは、急な発作に即時対応できるよう病室に常駐させていたはずの看護師を、医療棟の独断で外していた事実を知られるのを恐れたからだった。常駐させていればすぐに気付いたはずだった。後でこのことを厳しく追及すると、治らないが死にもしない患者を治療する為の労力が惜しかったのだと、要約すればそういった趣旨の言葉がとても遠回しな表現で返答があった。認めたくはないけれど、正論だった。だけど、それでも――やり場の無い怒りを覚えたのは決してわたくしだけではなかっただろう。最近では治療すらせず、発作に苦しむ彼女を放置していたのだから。仮にも、黒の森の邪竜に止めを刺す一端を担った英雄に――なんということを。
封筒を破り、便箋を開けた。微かに花のような薬草のような不思議な香りがふわりと漂う。シグリットの匂いだ。そこには、友人として共に居られた事への喜びと謝意、そして挨拶もせずに立ち去る事への謝罪が書き綴られていた。何の役にも立てなかった事、ただ重荷になってしまった事、このまま居てはジークやヒューに縋ってしまいそうだと、そんなふうに思ってしまう自分が浅ましく悍ましいのだと、そんなことが淡々と書き綴られていた。
やるせなかった。非力な自分が悔しかった。安全な王宮の奥で守られているわたくしでは、愛する夫とともに居られるわたくしでは、本当の意味で彼女の支えになってあげることなど出来なかった。いいえ、わたくしだけではない、ジークにも、陛下にも、彼女と親しかったフィーネやヒューでも――婚約者を亡くし解呪出来ない呪いを受け、誰かの隣に立つ未来を奪われてしまった彼女にとっては、未来のあるわたくしたちの誰にも支えになってあげることなど不可能だった。
「これではまるで、利用するだけして壊した挙句に放り出したようではないか!」
陛下が悲痛に満ちた叫びを上げた。オルファレイス子爵の遺品である研究資料を握り締めて。彼女は、本当に何もかもを置いて行ってしまったのだ。大切な養父の研究資料も、自らの研究資料も、なにもかも。ただただ、役に立てなかった自分が出来るせめてもの、そういう思いからのことだったようなのだけれども、何故そこまで自分を卑下するのか、その時のわたくしにはわからなかった。後で執務室に呼び付けられて怖々と入室してきたフィーネとヒューから、ユリウスの死後、彼女が随分と手酷い嫌がらせをされていた事を知った。恋人ひとり助けられなかった役立たずだと、役立たずのくせに生き延びた恥知らずだと、義妹の言葉を借りての聞くに堪えない誹謗中傷で、わたくし達の知る以上に精神的に追い詰められていたのだと知った。
それを聞いて、ジークは肘掛けに激しく拳を打ち付けた。何度も、何度も。きっと、思いはわたくしと同じだったのだろう。
知らなかった。守れなかった。支えてあげられなかった。何が王太子妃よ。大切な友人ひとり、守ってあげられなかったのではないの。
その後。
捜索隊を出してすら、シグリットを見つけることは出来なかった。初めは彼女を疎んだ誰かによって拐かされたのではという疑いも出たけれど、病室に残された魔力痕や、綺麗に片付けられた彼女の私室の様子から、彼女自身の意志で失踪したのだと結論付けられた。彼女は本気で姿を消す気だったのだ。やがて捜索隊は解散され、各騎士団に失踪者捜索の触れを出すに留まった。
城内でもしばらくは彼女の話題で持ち切りだったけれど、やがてそれも無くなった。ユリウスもシグリットも初めから居なかったかのように、日々が過ぎていくようになる。
それから半年が過ぎ、あと二月ほどで黒の森の惨事から一年という節目に合わせてそろそろ明るい話題が欲しいと、ナタリヤとアウフレヒト公爵家の嫡男の婚約話が水面下で進められていた。あれからナタリヤも大分落ち着いたのか、意外にも彼との婚約を了承し、それに合わせて侍女のヒルデリータにも縁談話が持ち上がっていた。
あの惨事から一年。ようやくそれぞれが前を見て歩き出そうとしていた時だった。
このところ城下で奇妙な物語が流布されているらしいという報告があった。切欠は警邏中の騎士が城下で耳にした噂話だった。曰く、姫と密かに愛し合っていた騎士に横恋慕した挙句に彼を殺し、姫の悲しみを聞き届けた神によって呪いを掛けられ、城を追い出された魔女が居ると。明らかに見知った誰かを連想させるその噂話は騎士団内に広まり、やがて城内にまで流布するようになった。噂話に対して城内の反応は二つに割れた。多くの人々は事実無根の酷い中傷話だと憤ったけれど、物語のモデルになったであろう「騎士と魔女」に少なからず悪感情を抱いていた者達にとっては格好の醜聞だった。当然事実無根の噂話を城内に持ち込むなど言語道断と、「物語」に興じた者は厳しく叱責された。でも、一度流布した噂を完全に打ち消すのは困難だった。
ユリウスの命日を迎える頃には「物語」は看過できない状態になっていた。シグリットの捜索依頼を悪しき魔女の討伐命令と受け取る騎士が出始めたこと、そのことで黒髪黒眼の女性が魔女狩りに近い状態で拘束される事件も発生したことで、王家自ら本格的に噂話の撲滅と、出所の解明に乗り出すことになったのだった。
そして。
「騎士と愛し合っていた姫」は、とうとう尋問されることになった。悪質に過ぎる噂話の流布に関わっているのではないかと。「魔女」に呪いを掛けたのは「姫」なのではないかと。シグリットが呪いを発症した時、真っ先に疑われていたのもナタリヤだった。最後の接触から発症までに間が空き過ぎているとして、容疑者から外されていたのだったけれども、結果として、厳しい尋問の末に、ナタリヤは白状した。
噂話については本当に知らない、けれども、呪いを掛けたのは間違いなく自分だと。それどころかユリウスを殺したのも自分だと。ヒルデリータの口車に乗せられて、ほんの少しだけシグリットに嫌がらせをするつもりだったと。シグリットの顔に一生消えない醜い傷跡を付けるだけのつもりだったと。そうすればユリウスの気持ちも彼女から離れるだろうと。ヒルデリータが何処からか入手した呪いの術式に自らの恨みと願いを込め、出世欲の強い騎士に戦場で起動するよう依頼したのだと。結果としてシグリットを庇ったユリウスが死んだことで激しく彼女を憎み、恨みを募らせ、今度こそ彼女に生涯苦しみぬくような呪いを掛けるために病室に侵入して暴挙に及んだのだと。
恐ろしい話だった。聞くも悍ましい話だった。愚かにも結婚を控えた騎士に横恋慕した挙句、その婚約者を亡き者にしようとして失敗し、ほとんど八つ当たりのように彼女に酷い呪いを掛けたのだから。
尋問に立ち会っていたジークは、実の妹がシグリットに呪いを掛けていたどころか、予期していなかったとは言えユリウスを殺したという事実に激怒し、抜刀しかけたということだった。すんでのところで踏み止まったジークの自制心を、わたくしは心の内で称賛していた。わたくしだったら――わたくしに力があったのなら、その場で八つ裂きにしていたかもしれない。
同時に取り調べられていたヒルデリータの証言からアウフレヒト公爵家の名が出て来たことで、極秘に調査委員会が設置され、各部門から信頼出来る精鋭が集められた。ナタリヤの降嫁先、そしてヒルデリータもまた公爵家の傍流の娘ということもあって、ただの恨みからくる犯行ではなく公爵家絡みの暗殺事件、そして更に大掛かりな陰謀を企んでいるのではないかと疑ったからだった。
陛下は公務で忙しく、調査の実質的な指揮はジークが執っていた。けれども、積み重なった心労から、ある日とうとう倒れてしまった。自室に担ぎ込まれたジークは激しい頭痛と眩暈で酷く苦しそうだった。それでも、過労と心労によるものだから数日は自室で休養するようにと侍医に言いつけられたのにも関わらず、何度も起き出そうとしてその都度止めなければならなかった。
「こんなことで寝ている場合ではないのに。あの二人が受けた痛みに比べたらこんなもの、比にもならないじゃないか」
「……それでも今は休まなくてはいけなくてよ、ジーク。貴方のこんな姿を見たら、ユリウスもシグリットも悲しむわ」
二人の名前を出して諭すように言えば、ようやくジークは大人しくなった。人払いした部屋に、しばらくの間ジークの苦し気な息遣いだけが響いた。
「――私は、弱いな」
「……そうね。わたくし達は、弱いわ」
わたくし達は弱かった。いずれ国を担うにしては、あまりにも弱かった。大切な友人ひとり守り切れないほどに。
共通の友人を亡くした者同士という繋がりで、あの後ヒューやフィーネと接する機会の増えたわたくし達が、彼らに言われた言葉がある。
生じた歪みの責任を負わされ切り捨てられるのは、立場の弱い者なのだと。守り切りたいのなら、強くならねばならないのだと。
立場の弱い者。まさにシグリットの事だったのだけれど、それは国政にも言えることだった。何かあった時に、末端の民を犠牲にするような政であってはならない。力は弱い、でも立場だけは強いわたくし達だけが生き残るような国であってはならない。青臭い考えなのは分かっている。それでも。
「このままでは二人に顔向け出来ないな」
「ええ」
「近い将来にこの国を背負って立つことになる我々は、もっと知恵と力を付け、強くあらねばならない。そのための努力を、私は惜しまないよ」
「わたくしもよ、ジーク。貴方と共に、強くなるわ」
静かな、二人だけの誓い。
――それは他の誰でもない、逝ってしまった彼と、居なくなってしまった彼女に捧げる誓いだった。
「エリザヴェータ様。温かい季節になったとは言え、あまり長く夜風に当たられると御身体に障りますわ」
長く仕えてくれているアルマに声を掛けられて、離宮のベランダから夜空を眺めながら遥か昔に想いを馳せていた意識が、急速に現在に引き戻される。あの痛ましい出来事から、もう随分と長い年月が経っていた。子が生まれ、そして孫が生まれ、その孫もあと数年で王位を継ぐ、それほどまでに長い時が経っていた。
あれからのわたくし達は、それまで以上に――王太子として、王太子妃として積み重ねて来た努力以上に、知識を、知恵を、力を、貪欲に求め続けた。そしてジークが即位した後には腐敗貴族の粛清や王侯貴族に蔓延る貴族主義の意識改革、身分に依らない実力重視の人材登用に着手した。高位貴族の選民意識は未だに根強く残ってはいるのだけれど、あの頃に比べたら随分と緩やかになったものだと思う。そして、ジークが最も力を入れていた高度の呪術解除の研究を含む医療技術の向上は、妊婦と乳幼児の生存率上昇にも貢献し、歪な人間関係を生む切欠ともなる側室制度の撤廃にも繋がった。無論、かつては死病とされていた一部の病の治療や、解呪不可能とも言われていた高度呪法の解呪が可能になったことで、国内外からの視察も絶えない医療大国となった。
全てはこの国の民のため――いいえ、あの日助けられなかったシグリットのための尽力。
――ねえ、シグリット。全て、貴女のためなのよ。
ジークは彼女に再び逢えることなく、八年前にこの世を去った。最期まで彼女を気に掛けていた。わたくしが妬けるほどに。
貴女は今、何処に居るの。貴女はまだ、あの呪いに苦しんでいるの? それとも不死だなんて診断違いで、何処かでたった独り――逝ってしまったなんてことはないわよね?
シグリット。貴女に、逢いたい。もしまだ苦しんでいるのなら――もう、治すことが出来るのよ?
もう一度促されて部屋に戻ると、アルマはにっこりと笑って言った。
「ベルトルド殿下が今度、お会いしたいそうですわ」
「まぁ、ベルトルドが? 珍しいわね」
「なんでも、お話したい大切な事がおありとか」
「あら、あの独身貴族が、とうとう妃を迎える気にでもなったのかしら」
若い頃のジークに瓜二つな孫息子の顔を思い出しながら、くすくすと娘のようにアルマと笑い合う。
そして。
孫の口から聞かされた、「魔女の帰還」の報せに大いに驚かされることになるのは、この数日後のことだった。




