EP0 ある事件被害者の独白「ユリウス」
「――シグリット・オルファレイス殿?」
俺が、その一言を掛ける為にどれだけの勇気を振り絞ったか、君は知っているだろうか。
初めてシグリットを知ったのは、ジークと差し向かいで飲んでいる時だった。毛色の変わった女が仕官したと、いつになく少しばかり浮かれた調子で言うから珍しいこともあるものだと思ったのを覚えている。
「下心とか野心めいたものが一切無くてね。気を張らずに話せるんだ。最近じゃエリィの方が気に入ってしょっちゅう話し相手をさせているよ」
十数年前、体の弱い奥方の為に田舎に引っ込んだ、王の古馴染みの養女。将来を期待されていながら早々に城勤めを辞めてしまった彼の才能を惜しみ、その養女にして唯一の弟子である彼女を城に引き入れたという噂なら聞いていた。薬師として招かれたものの、魔力持ちと知れて、人手不足に悩む魔導士団に半ば強引に引き抜かれたという噂も。田舎育ちの身で王に請われて宮中に引き入れられるなど、それはさぞ気苦労が多かろうなと噂を聞いた時に思ったが、その時はその程度の関心で終わった。
だが、様々な思惑の渦巻く王城で、心を開いた人付き合いなど滅多にしない王太子夫妻にそこまで気に入られるのならと、この時初めて興味を持った。
意識して見ていなければ、美しく着飾った女達の影に埋もれてしまうような、そんな地味な風体の女だった。黒髪を結い上げるでもなく片側に緩く編んで垂らし、薄化粧で香水の香りもしない。城内で見かける時も、いつも目立たぬよう端を遠慮がちに歩き、同行者が入れば敢えてその影に隠れるようにしている、そんな女だった。だがそれも、彼女なりの処世術なのだと知れた。王や王太子夫妻、そして魔導士団長の覚えも目出度い女となれば、それだけでも目立つ。それを吹聴するでもなく、ただ静かに日々の勤めと修練に励む様子は好感が持てた。彼女の人脈目当てに近付く輩もそれとなくあしらい、決して自分から売り込むような真似をしない。城内ですれ違っても取り立ててこちらに興味を示す事はなく、跪礼や会釈をする程度で、他の女達のように妙に熱の籠った視線や気を引くような思わせぶりな態度をとることもない。
なるほど、確かにジークの言う通りだ。下心や野心とは縁遠い女。男相手に甘ったるい声色を使い、あざとく媚びるように見上げる視線も無く、ただ自然にあるがままに相手を見る彼女をいつしか好ましく思うようになっていた。城内では何とはなしに彼女の姿を探すようになった。姿を見かければ、つい視線で追いかける。
すれ違いざまにふわりと鼻腔を擽るのは決して不快ではない微かな花の香り。柔らかく艶やかな夜空のような黒髪に縁取られた薄化粧の顔、伏し目がちの瞳と柔らかに微かな笑みの形を象る唇が、彼女の慎ましく品の良い美しさを引き出している。宮中の女たちのように艶やかに咲き誇るでもなく、草原にひっそりと慎ましく咲く野の花のような女。あの密やかな美しさを知るのは俺だけでいい。そう思うようになるのに時間はかからなかった。
「お前らしいな。やっぱりああいう淑やかな女が好みか」
気付かれないようにしていたつもりだったが、同期のヒューには解ってしまったらしい。
「どんだけ麗しいお嬢様だろうが全部袖にしてきたようなお前が、あれだけ熱心に見てりゃなぁ。だが、あの女を落とすのは難儀だぞ。生半可な口説き方じゃ靡きゃしねぇらしい」
知っている。彼女の前では身分も権力も、整った容貌も、何もかもが無意味だ。妙な下心など抱いて近付いたのでは彼女は心を開かない。多分彼女は俺と同じだ。頑なに言い寄る相手を拒むのは。下手を打ちたくはなかった。ジークを通して近付くのも違う気がした。元より所属の違う俺達の接点など、合同演習でも無ければそれこそ偶然すれ違う時ぐらいなのだ。どう近付くか、そんなことを悶々と考えているうちに数ヶ月が経っていた。
切欠は突然に降ってきた。
その日は騎士団の対抗試合があった。中央騎士団に在籍するもの全てが参加する御前試合とあって、平時の訓練以上に皆気合が入る。故に、模造剣とはいえ本気の打ち合いになるのだから負傷者も絶えなかった。それでも大概が打撲傷や擦過傷で済む程度なのだが、この日は違った。ある騎士の手にした模造剣が傷んでいたのだ。打ち合う最中に剣が折れ、折れて鋭くなった切っ先が対戦相手だった部下の利き腕を深く抉ってしまった。飛び散る鮮血と悲鳴に場内が騒然となる中、部下を担ぎ込んだ場外の医療テントで対応したのがシグリットだった。
――不謹慎にも、僥倖だと思ってしまった。
常ならば騎士団員の治療は白騎士が当たるが、対抗試合には白騎士にも参加義務がある。そのために治癒魔法の使える魔導士や薬師が医療担当として呼ばれていたのだ。
「大丈夫。出血が多いから驚いたかもしれませんが、後遺症が出るような傷ではありません」
苦鳴を漏らす部下を優しく宥める声が穏やかに耳を打つ。
そういえば、声を聞くのはこれが初めてだと思い至った。耳に心地よい声。
「まず、雑菌の感染を防ぐ解毒魔法をかけてから治癒魔法で傷を塞ぎます」
清めた水と清潔な布で傷口を拭い、宥めるように部下の手を優しく握る。それからもう片方の手をそっと患部に手を翳して魔法の光を注ぎ始めた。額に汗を浮かべて痛みに耐えていた部下の表情が徐々に緩んでいく。
「傷は塞がりましたが、念の為三日は安静にしていてください。滋養の薬湯をお渡しします。もし患部に違和感や発熱があるようでしたら、遠慮なくお声を掛けてくださいね。お大事に」
無駄のない流れるような動きで治療を施し、患者を安心させるように淀みなく適切な言葉をくれる。普段目立たないよう遠慮がちにしている彼女の、穏やかで優しいだけではない堂々とした、凛とした姿に――完全に心を奪われてしまった。
そして気付いてしまった。思いの外、敵が多いことに。治療した部下や彼女の同僚らしき男、同席した薬師が彼女に向ける劣情を宿した視線。
シグリットに礼を言い、何やら名残惜しそうにしている部下を追い立てるように医療テントから出る。これは早々に手を打たないといけないかもしれない。つい気が急いて、その後の対戦は手加減すら忘れてしまった。団長やヒューには苦言を呈され、貴賓席のジークは目を丸くしていたが、正直それどころではなかった。
試合後、もどかしい思いで終業時間を待ち、所用があるからと言い置いて左翼塔へと向かう。いや、向かってどうするというのか。部下が世話になった礼をという名目で会うつもりではあったが、魔導士団の詰め所へ行くのも彼女の自室へ押しかけるのも、いくらなんでも唐突すぎないかということに思い至って、王城と左翼塔を繋ぐ渡り廊下の手前で立ち竦んでしまった。ここから先に進むか否かで悶々としていたその時、廊下に面した一室から見覚えのある黒髪の女が出て来るのが見えた。そのまま渡り廊下を歩いていく。
突然の邂逅に思わず息を飲んだ。声を掛けなければ。そう思うが、つい躊躇した。もし失敗したら。だが、周囲に邪魔する者は誰もいない。俺と、彼女の二人きりだ。これは好機なのだと、俺はようやく一歩踏み出した。
「――シグリット・オルファレイス殿?」
……俺の声に立ち止まった彼女が、ゆっくりと振り返る。穏やかな夜空のような瞳が、俺を真っすぐに見つめた。王太子の親友、騎士団の英雄、伯爵家の子息――そんな表面的な俺の肩書ではなく、まっすぐに俺を、俺自身を見透かすかのようにこちらを見つめる瞳に、俺は次の言葉を無くしてただただ彼女の顔を見るより他なかった。
「私に何か御用でしょうか、騎士様?」
呼び掛けたきり黙り込んだ俺を訝しく思ったようだった。口調こそ柔らかいが、媚びる色は欠片もない言葉を掛けられる。
「いや、偶々姿をお見掛けして、今日は部下に世話になったから礼をと。無駄のない的確な処置と助言、そして優しい気遣いに感銘を受けた。本当にありがとう」
「……恐縮です。お役に立てて光栄です」
素直に謝意を述べただけだったが、一枚薄い壁を挟んでいるかのような、どこか余所余所しい態度が一瞬緩んだような気がした。僅かにその頬に朱が差した。ああ、そうだ。やはり彼女は。
「君、いつも大人しく慎ましくしてあまり目立たないようにしているだろう。だが、今日の君は凛としていて美しかった。普段の慎ましいところも好ましいが、あの凛とした姿もまた君を形作る要素の一つなのだろう。特殊な立場で色々言う者も多いだろうが、俺は君を応援している。どうか、負けずに頑張ってくれ」
俺が続けた偽りの無い本心からの言葉に、とうとう彼女は顔を赤くした。良かった。彼女の心に触れられたようだった。聞きようによっては口説き文句にも聞こえたかもしれないが、それもまた俺の本心であることに間違いは無いのだから構わない。
――本来なら目立たぬはずだった俺の人生の風向きが変わったのは、ジークに会ってからだった。田舎貴族の冷や飯食いだった俺の何が気に入ったのか、俺に纏わりつき、親友だとまで言ってくれた王太子。無論そのことで妬みを買い、事実無根の中傷を受けることにもなった。このままではジークの名にも傷が付きかねないと、ジークの気持ちに報いるため、その隣に並び立つのに相応しい男になるために、必死で鍛錬に励み、武勲を上げる事に心血を注いできた日々。その甲斐あってか相応の役職を得る頃には目立った中傷は無くなったが、代わりに言い寄る女が増えた。だが、どの女も俺を見てはくれなかった。見ているのは俺の地位と立場、そして人よりは多少整っているらしいこの容貌。表面的な肩書しか見ない、俺の内面を見てくれない女達に壁を作るようになるのにそう時間はかからなかった。
シグリットも同じなのだ。王家や公爵家と懇意にしている彼女に近付く野心的な男は多い。袖にされた男達は皆、彼女の後ろに控えるものを見ていただけなのだ。彼女自身を欲した訳ではなかったのだろう。彼女に本当に近付きたいのであれば、偽りの無い自分自身の心を見せ、彼女自身に目を向けてやるべきだったのだ。
そしてその通りにしてみれば案の定、彼女の心に手が届いた。
「ああ失礼、名乗りが遅れた。俺はユリウス・キストラー。青騎士団第二分隊長を務めている。これからもよろしく頼むよ」
利き手を差し出して握手を求める。剣を握る利き手は騎士の命。それを差し出すのは、相手への信頼の証だ。気付いただろうか。伝わっただろうか。
彼女の手が、躊躇いがちに俺の手に触れた。その柔らかく温かい手を強く握り返す。
「――こちらこそ、よろしくお願いいたします。ユリウス様」
朱が差したままの顔が、柔らかく解けるように微笑んだ。俺の名を呼ぶ声が甘やかに耳朶を打つ。ああ、この微笑みも、名を呼ぶ声も。今この瞬間は、俺だけのものだ。
この日以来俺の心に巣食った独占欲を満たすために、自分でも驚くほど姑息な真似をした。姿を見掛ければ必ず声を掛け、時間が許せばその隣を占領して、他の男達を牽制した。食事の時間が重なれば同席して、仕官して以来ストレスで食の細くなったという彼女を餌付けするように、自分の皿からその可愛らしい口に料理を運んでやった。他人行儀は嫌だと言い張って呼び名の敬称も外させた。殊更に彼女との親密さを顕示し、二月もする頃には、あの二人はただならぬ仲なのだと思わせることに成功した。
半年が過ぎる頃にはシグリットの部屋に出入りするようにもなった。流石に男所帯の騎士団寮に彼女を呼ぶような事は出来なかったが、余暇は彼女の部屋で過ごすことも増えた。穏やかに包み込まれるような優しさに、日々の疲れも癒されていく。
一年が経つ頃には夜会に連れ出すようにもなっていた。俺も彼女も、ああいう社交界の付き合いは得意な部類ではなかったが、必要に迫られて出席しなければならない時は、互いにパートナーを務める事で、言い寄る相手を躱していた。
だが、夜会ともなれば酒も入る。酒が入れば歯止めが効かなくなる者も出る。ある日、少し俺が席を外した隙に、酔った男にしつこく言い寄られた彼女が、いかがわしい悪戯を仕掛けられたことがあった。酔った上に外務大臣を務める公爵家の嫡男とあっては、さすがの彼女も邪険にはできなかったようだった。その男は確か留学中の姫君の婚約者候補だと聞いた覚えがあったから、その事を持ち出して丁重にお引き取り頂いた。人気の少ないテラスの影に連れ出され、抱き寄せられて、むき出しの項や肩、鎖骨の下の際どい部分を撫で回され、さぞ不快だったのだろう。男が立ち去った後も青褪めて震えたままの彼女を宥めるつもりで、その唇にそっと口付けを落とした。一瞬その華奢な身体が硬直したが、何度か啄むと、やがて落ち着いたようだった。
多分、この頃からだ。時折口付けを交わすようになったのは。挨拶代わり、元気になるまじないのようなものだと言って触れるだけの口付けをする俺を、呆れつつも受け入れてくれる彼女にすっかり甘えてしまった。口付けまでしておきながら、未だに言葉で気持ちを伝えていないのだ。
我ながら腰抜けにもほどがあるとは思ったが、ここにきて自分の気持ちに自信が持てなくなっていた。俺は本当に彼女を愛しているのか。毛色が違うから気に入っただけではないのか。どこか境遇の似通ったところのある彼女に同情しているだけではないのか。俺自身が不快な思いをしたからこそ、ここから先に踏み出す事を躊躇ってしまった。
そんなふうに打ち明けたら、ヒューには盛大に呆れられた。
「お堅い騎士様かと思ってたら、まさかただのヘタレだったとは……」
ぐうの音も出ずに俺は押し黙ったが、後日ジークにまで聞きつけられて猛烈に怒られたのには閉口した。退勤間際に急に入った大量の書類仕事をどうにか終わらせ、ふらふらと自室に戻る途中で突然後ろから凄まじい殺気が迫り、咄嗟に応戦しようと振り返ったらそれがジークで呆気にとられ、そのまま正面から蹴り倒されたのだ。
「お前、妙齢の女性に正式な交際の申し込みもせず、長期間囲ったままにしておくとはどういうつもりだ!」
ジークの怒りも尤もだった。先に踏み出す事を躊躇しながら、それでいて手放す気など欠片もないのだから。
「彼女は私やエリィにとって大事な友人なんだ。だから、下手な男に嫁がせるなんて真っ平御免だ。だが、私が見込んだお前が娶るならこれ以上嬉しいことは無いと思っていた。なのに、この状況は一体なんだ」
ジークが彼女を大切に思っている事は知っていた。だが、俺はこの時遂に気付いてしまった。薄々感じていた疑念だった。一度懐に入れてしまえば、どこまでも心を傾けるのがジークという男なのだが、それにしても友人相手に抱くには、その情が些か深過ぎるのではないか、と。
「――なら、お前が娶ろうとは思わなかったのか、ジーク」
口をついて出た言葉は、ジークを動揺させたようだった。否定の言葉は無かった。一瞬見開かれた目が僅かに逸らされたことで、それは図星だったと知れた。
「……私にはエリィが居る」
「側室制度はまだ生きているだろう」
「……確かに私はエリィという妻がありながら、女としてシグリットを愛している。だが、それだけの理由で気安く側室に迎えるほど私は落ちてはいないつもりだよ」
医療の発達によって子供の死亡率が減少した上、後継争いを嫌って正室のみを迎える王侯貴族も増加しつつある最近では形骸化した側室制度を持ち出して迫ってみる。ジークはその美しい顔を歪めた。俺達のような若い世代では、女を軽んじているに同義の一夫多妻を忌む者も増えた。俺もそうだ。ジークもそうなのだろう。
「だから、シグリットには唯一彼女だけを愛してくれる男の元に嫁いでくれれば良いと思っている。それが、一番身近で、私が唯一見込んだお前なら、私のこの気持ちも報われるのではないかと……思ったんだ」
身勝手な願いだ、そう吐き出すように言ってジークは壁に背を預けると片手で顔を覆った。だが。
「……身勝手なのは俺も同じだ。俺は、自分の気持ちに自信がなかった。なのに手放す気などさらさらないんだ。だから、気持ちの整理がついたら、必ず彼女に想いを打ち明ける。それは、信じてくれ」
――それからしばらくの後、ようやく俺は彼女に求婚した。悩む必要など初めから無かった。俺の隣に居て欲しい、俺の側で笑っていて欲しい。その笑顔を作ってやれるのが、守ってやれるのが俺であったならば、これほど幸せな事は無い。これは紛う事の無い、真実俺が彼女に向ける想いなのだ。
――だが、もし、もっと早くにそれに気付いていたのなら。もっと早くに彼女を俺のものにしていたのなら。花嫁衣裳を纏って俺の隣で美しく微笑む君を見る事が出来ただろうか。俺は死なずに済んだだろうか。彼女を苦しめずに済んだだろうか。
あの優しく気高いジークに似ても似つかぬ妹姫の愛など要らない。昏い情欲に濡れた瞳で俺を見つめる姫の侍女の悍ましい視線も要らない。
「……っぐ、あ、うぁ、」
喉の奥から溢れる生温い血の塊が、みっともなく漏れる苦鳴とともに吐き出される。熱い、痛い、苦しい。腑の奥が焼き切れるような酷い痛みに身体が震える。視界が霞む。俺の名を呼ぶ声が、遠ざかる。
ああ、悔しいなあ。
シグリット。もう少しで君の花嫁姿が見られるところだったのに。
ジーク。もう少しでお前の治める世が見られると思ったのに。
ああ、でも。
こんな怖ろしい苦痛をシグリットに味わわせずに済んで良かった。君が、無事で、良かった。
だから、どうか泣かないで。
「……シグリット」
力を振り絞って出したはずの声は、掠れて吐息のように漏れる。伸ばした手が、温かく柔らかい誰かの手に握り締められる。
「……すまない」
君を幸せにしてやれなくて。
「……愛して、る」
――永遠に。君だけを。
愛しい女が俺を呼ぶ声を最後に、意識が暗闇に呑まれて、消えた。




