10 六十一年前(春・後編)
キャラクターへの暴力描写があります。
ご注意ください。
黒の森掃討作戦及び邪竜討伐作戦は、多くの戦死者を出した。
王都への帰路、団長らの計らいで、親しい者を亡くした者達は、その亡骸の側に付くことを許された。シグリットもまた、馬車の揺れを感じながら、白い布に包れたユリウスの側に座り込んでいた。ユリウスの身体を、布の上からそっと撫でる。冷たい。腐敗防止の為の冷却魔法の冷気は、その包みの中に眠る者が、死者であることを示している。上に置かれた階級章と剣を撫でた。これらは全て、キストラー家に還されるだろう。自分には、助けられなかった自分には、受け取る資格は無い。
道を行く人々は、騎士らの様子から察したのか、葬列のような隊列を痛ましげに見送った。やがて王都に入り、市街地を抜けて城門をくぐり、隊列は王城の前庭に入っていく。帰城したのだ。シグリットは重い身体を引き摺る様にして荷台から降りる。
前庭には王族を始め、城に勤める者達が出迎えに集まっていた。既に早馬で悲報は届けられていた。多くの戦死者が出た。凱旋を喜ぶ気配は無かった。ただただ、悼む空気が満ちている。
騎士団長が帰城と作戦の完遂を国王に報告する。皆、無言でその様子を見守っていた。と、その時。人垣の一角に騒めきが生まれ、誰かの走り寄る足音が聞こえた。そちらに視線を巡らした瞬間、頬に凄まじい衝撃が走り、シグリットは横様に倒れ込んだ。
水を打ったように辺りは静まり返った。
「人殺し!」
若い女の声で罵られて、殴られた頬を押さえながら視線を上げる。扇子を振り上げたまま、憎々しげに見下ろすジークフリートとよく似た面立ちの娘と目があった。
「ナタリヤ様……」
「おやめ! その口でわたくしの名を呼ばないでちょうだい。汚らわしい!」
「姫、おやめください!」
「どうかお気を確かに!」
すぐそばに居た騎士がシグリットを庇い、侍女のヒルデリータが駆け寄って蒼白な顔でナタリヤに縋りつくが、ナタリヤは構わない。
「どうしてユリウス様が死ななければならなかったの! 死ぬのは貴女だったのでしょう! どうして助けられなかったの! 何の役にも立たない能無しが、よくもおめおめとこの城の門をくぐれたものね。誰か、この女を牢に――」
ばしん。
乾いた音が辺りに響いた。
ジークフリートがナタリヤの頬を打ったのだ。穏やかなで乱暴を好まないはずの兄王子に胸倉を掴み上げられ、あまつさえ頬まで打たれて、ナタリヤは呆然と彼を見上げた。妹姫を見下ろす王太子の視線は、険しく冷たい。
「――国の為に命を賭して戦ってきた者に労いの言葉を掛けるどころか、私情で乱暴を働き罵声を浴びせるとは一体どういう了見だ」
ナタリヤは何か答えようとして、唇を戦慄かせた。だが、いつに無い兄の様相に言葉を出せないようだった。乱暴に胸倉を掴んでいた手を放されて、ナタリヤは無様に尻餅をついた。その彼女に、父王セオドアが歩み寄る。
「父様」
縋るように父王を見上げたナタリヤは、その鋭い視線に凍り付いた。父も、兄も、母も、義姉も、その目は酷く冷たい。固唾を飲んで見守る騎士や魔導士らも、聡い者は薄々事情を察したようだった。それでなくとも邪竜討伐の一端を担い、あまつさえ目前で婚約者を失った者に対して、役立たず、能無しと罵る姫に複雑な思いを抱いた者も少なくなかった。何とも言えぬ表情を浮かべて成り行きを見守っている。
「ナタリヤを連れて行け。しばらく部屋から出すな」
セオドアが命じると、近衛騎士が恭しくも有無を言わさぬ様子でナタリヤを連行していった。フィーネがシグリットに駆け寄って来る。シグリットを見て、フィーネは顔を歪めた。手布を取り出し、口元を軽く押さえて来る。
「血が出てるわ。大丈夫?」
シグリットは頷いた。言葉は出なかった。身体を支えられ、ゆっくりと立ち上がる。
「馬鹿娘が無体な真似をした。あれの父として謝罪したい。本当に済まなかった」
「……いえ。私こそ、力が及ばず――」
言葉が詰まった。
ユリウスを、死なせてしまった。
助けられなかった。
セオドアは痛ましげに顔を歪めたが、直ぐに表情を引き締めた。立ち並ぶ騎士らに向かって居住まいを正す。
「本来ならば労いの言葉でもって迎えるところを、我が娘が見苦しい所を見せた。申し訳なく思う。……此度の戦い、本当によく頑張ってくれた。邪竜の討伐により、当面の安寧は約束された。今後も異常瘴気による被害は続くだろうが、国を挙げて定期的な瘴気浄化を進めて行くことになるだろう。だが、今宵はどうか、身体を休めて欲しい。細やかではあるが、宴席を用意した。酒と温かい食事で疲れを癒し、英気を養い、そして戦場で逝った仲間を悼んで欲しい」
騎士らは敬礼した。王族が立ち去ると同時に、皆それぞれ後処理に動き出す。顔見知りの騎士や魔導士はシグリットに気遣わしげな視線を向けつつ持ち場に急いだ。しなければならない事は山積みだった。報告書の作成、魔獣の検体の分析、それに、
(――ユリウスのご両親にも、謝らないと)
自分のせいで、死なせてしまった。助けられなかった。あの場に居なければ良かったのか。死ぬべきはユリウスではなかったのに。本当に死ぬはずだったのは自分だったのに。自分が死ねば良かったのだ。
ナタリヤに投げつけられた言葉が、じわじわと胸を抉る。
それからのシグリットは、まるで自分を殺したがっているようだと同僚に心配された。当たらずとも遠からずだと思った。けれど、このまま死ぬのは本意ではなかった。あっさりと自決を選ぶ程愚かでも無かった。ただ淡々と事後処理と日々の仕事をこなし、部屋に戻ればどうにも眠れず薬に頼って睡眠を取る日々が続いた。
――数日後、殉職者の国葬が執り行われた。
国旗を掛けられた棺が、葬送儀礼を終えてそれぞれの埋葬地へと送られた。司祭が祈りの言葉を捧げ、儀仗兵に選定された騎士らが弔砲を撃つ。棺に掛けられた国旗が騎士団長の手によって畳まれ、愛剣と階級章と共に遺族へと手渡された。ユリウスの両親は恭しく受け取った。棺は墓穴の底へ静かに降ろされ、近親者から順に棺に土を掛けていく。シグリットも婚約者として、遺族の次に許された。その次に、親友だった王太子夫妻が続く。ヒューは直属の部下を、フィーネは同僚を見送る為に、ここへは来られなかった。
……そして訪れた、永久の、別離。
立派な、葬儀だった。多くの人々に見送られて、安息の地へと旅立ったのだ。
キストラー家の人々にはユリウスを返せと罵倒されるものだと思っていた。けれど、掛けられたのは気遣いの言葉だった。ユリウスを育てた家族はやはり、ユリウスのように優しく気高い人々だった。
「あの子は命を投げ出してでも君を助けたいと思ったんだ。息子のその気持ちを無碍にすることは出来ないよ」
「貴女が無事でいる事があの子の願いだったのよ。だからどうか、自分を大事にしてちょうだい」
彼の両親は、実の娘を慰めるかのように温かかった。ユリウスの歳の離れた末の妹は、義姉様、と呼んでシグリットに抱き着いた。
「義姉様まで居なくならないわよね? ね?」
男兄弟ばかりの中で育ったソフィネルは、シグリットを姉のように慕ってくれた。末の兄のように、シグリットも何処かへ行ってしまうのではないかと恐れていた。大丈夫、とシグリットは頭一つ分小さい義妹の、ユリウスによく似た色の髪を静かに撫でた。
大丈夫、だなんて。
それから数ヶ月もしないうちに、その言葉を反故にすることになるだなんて、その時は思いもしなかったのだけれども。
葬儀を終え帰城する。帰城して間もないのか、シグリットのように未だ儀礼服姿のままの者も多かった。皆、沈鬱な表情だった。大切だった誰かを見送ってきたのだ。気持ちの整理がつけられないままの者も多かった。
儀礼服から着替える為に、自室に向かう。
ユリウスは、もう居ない。永久に居なくなってしまった。そのことを今更のように思い知った。養父を失った時以上の喪失感に、シグリットは浅く喘いだ。息が苦しい。身体が重い。歩くのも億劫になり、立ち止まって壁に身体を預けてしまえば、もう動けなくなった。
(――なんだか、暑い、な)
渡り廊下を向こうから歩いてくる顔見知りの騎士らがこちらを見て血相を変えた。駆け寄って来る騎士の手がシグリットを支える前に、全身の力が抜け、目の前が真っ白に染まる。遠くで誰かが自分を呼ばう声を聞きながら、意識を完全に手放した。
過労と精神衰弱による発熱と診断されたシグリットが意識を取り戻したのは、二日ほど経ってからだった。居合わせた騎士が城内の医務局へ運び、呼び出されたフィーネが付き切りで看病してくれていたと聞いて、シグリットは恐縮した。気にしないでゆっくり休んで、とフィーネは言った。その間私も休めるから、と彼女は冗談めかして言い、笑った。
実のところ、先の作戦で近しい誰かを亡くした者の中でも、婚約者を目前で亡くしたシグリットは特に注視されていたらしかった。決して一人にはするなと軍医から親しい者達に言い添えられていたのだった。
数日は熱が下がらず、意識のはっきりしない日が続いた。その間に王太子夫妻や国王夫妻、シュレーゲル、そしてキストラー家の当主夫妻が見舞いに来たようだった。
「婚約解消とかその他の手続きは全部やっておくから心配しないでしっかり休んで、だそうよ」
義理の両親となるはずだった二人からの言伝を受け取り、寝台から身体を起こせないままシグリットは苦く笑った。シュレーゲルからは、少なくとも一月は療養するようにと言明された。何もかも迷惑の掛け通しだった。
『――何の役にも立たない能無しが――』
ナタリヤの言葉が頭の片隅を掠めて、耐えきれずに思わず片手で顔を覆う。フィーネはそれを見て、また疲れが出たのだと思ったようだった。
「もう少し眠った方がいいわ」
そっと肌掛けを直されて、シグリットは大人しく従った。その後の数日は微熱を残したまま、浅い眠りと短い覚醒を繰り返した。
二週間が過ぎ、ようやく寝台の上に身体を起こして会話出来るまでに回復した頃、事件は起きた。
夜半。相変わらず浅い眠りを繰り返す中、ふと異変を感じてシグリットは目を開けた。常夜灯で眠りを妨げぬ程度にほの暗く保たれた室内に視線を巡らす。この頃にはフィーネは日常生活に戻り、夜間の看護は医務局の看護師が担当するようになっていた。常ならば、患者が気疲れせぬように直接視界に入るのを避け、衝立の向こうに控えているはずだった。が、先程交代したばかりの看護師は、足音を忍ばせるように、ゆっくりとこちらに歩いて来る。常には無い事に、シグリットは横になったまま目を凝らした。寝台の側で足を止めた看護師の顔を見上げ、その顔を認めた瞬間、咄嗟に飛び起き間合いを取ろうとした。が、病身で消耗した身体に負荷が掛かり、酷い眩暈を起こして寝台に倒れ込む。それを好機とばかりに彼女はシグリットの上に馬乗りになり、その両手を寝台に抑え付けた。
「逃がさなくてよ」
「……姫……」
看護服を纏って身分を偽った、王太子によく似た美しい娘の、その瞳に浮かぶのは狂気の光だ。ただの賊ならば魔法で応戦するところだったが、さすがに王族相手にそれは憚られた。仮に正当防衛だとしても。眩暈が襲う中、明らかな悪意を持つ目に見据えられて、シグリットは喘いだ。
「あの時は兄様に止められたけど、どうしても言っておきたかったの」
形の良いふっくらとした唇を、細い歪な三日月の形に引き上げて、ナタリヤは嗤った。
「本当は貴女だったのよ。なのに死んだのはユリウス様だった。最初から貴女さえ居なければ、あの方は死なずに済んだのだわ。なのに、どうして貴女がこうして図々しく生きているの」
抑え付けられた手首に、綺麗に整えられた爪が深く食い込む。息が、苦しい。
「わたくし、そもそも不思議でならないの。幾ら有能な方の養女とは言え、所詮は冴えない田舎の年増女が、ユリウス様のような素敵な方にお声を掛けられる事自体がおかしいのよ。上級魔導士だなんて、本当は貴女、悍ましい魔女ではないの? どんな色目を使ってあの方を篭絡したのかしら」
自分が貶されるだけなら、まだ許せた。だが、ナタリヤ自身は気付かなかったようだったが、その遠回しにユリウスを貶す言葉に、シグリットは歯噛みした。
「――あの人は、女の色目に簡単に篭絡されるような、安い人では、ありません。婚約者が居ると知れている男に色目を使うような、品の無い女は、嫌いだと言っていた」
「おだまりッ」
いつかユリウスが口にした、明らかな嫌味だったが、言わずにはいられなかった。はしたなくも、決まった相手の居る男に色目を使って近付いたのは姫ではないか。案の定ナタリヤは激高し、強かにシグリットは頬を打ち付けられた。眩暈の続く身体にその暴力はひどく堪えた。がんがんと頭が痛み出す。
「お前さえ居なければ、わたくしはユリウス様と一緒になれたのだわ。兄様の親友なのですもの、お前よりわたくしに優先権があったはずよ」
とうとうお前呼ばわりになって、痛む頭に眉を顰めつつも、シグリットは笑った。
優先権。それさえあれば、自分はユリウスと一緒になれたとでもいうのか。
――品が無い。婚約者の居る男に色目を使い、明らかな挑発に簡単に乗って暴力を振るい、ありもしない婚姻の優先権を主張するなど。いくら立ち振る舞いが美しかろうが、内面がこれではさぞや陛下や殿下はお嘆きだろう。だからこそ、わざわざ規律の厳しい異国の学院へ留学させられたのではなかったか。
「何がおかしいの! この薄汚い売女が!」
二度、三度と平手打ちを浴びせられ、口の端が切れた。さすがに限界が近かった。酷い眩暈と割れるように痛む頭が、容赦の無い折檻でぐらぐらと揺れる。気分が悪く、視界が歪んだ。
「――兄様も父様もお優しいからお許しになっているだけなのよ! でもわたくしは貴女を許さない! ユリウス様を殺して生き延びた貴女を許さないわ!」
ナタリヤの罵声が耳に木霊する。暗幕が下りたかのように視界が黒く霞む。
――ユリウスを殺した。のうのうと生き延びた。
ナタリヤの怨嗟の声が、胸を抉り、じくじくと痛み出す。
「絶対にこのままにはしておけない! 楽には死ねないと思いなさい! この先穏やかに生きる事も、あの方の元に逝く事も許さない! 未来永劫、許される事無く、永遠に罪と罰に苦しみ続けるがいいわ!」
ナタリヤが思いの限りの呪詛と怨嗟を叫んだその瞬間、俄かに廊下が騒がしくなった。駆け付けてくる複数の足音、そして乱暴に扉が開かれ、多くの人々が雪崩れ込んで来る気配がしたのを、朦朧とする意識の片隅で感じる。
「シグリット!!」
「おやめください、姫!」
押さえつけられていた手が離され、誰かの胸に引き寄せられた。
「その馬鹿を取り押さえろ!」
「――無礼者! 放しなさい! 捕らえるべきはその人殺しの女よ!」
「いい加減にしないか! 縛り上げても構わん、連れて行け!」
眩暈と頭痛、そして息苦しさに目を開けているのも億劫になって、シグリットは目を閉じたまま騒ぎが収まるのを聞いていた。ナタリヤの金切り声と軍靴の足音が遠ざかり、やがて静けさが辺りに下りた。
「――すまなかった。ただでさえ体調の思わしくない君を、また酷い目に合わせてしまった」
「……ジー、ク?」
耳元で囁かれた声は、ジークフリートのものだった。
「もうすぐエリィも来る。それまでは、どうか、このままで」
強く胸元に抱き込まれ、身体に回された片手が、幼子をあやすように背中を優しく叩いてくる。とくとくと、ジークフリートの心臓の音が聞こえた。抱き締められた身体が熱い。
詮無いと分かっていても、思わずには居られなかった。
――これが、ユリウスだったら良かったのに。
意識が暗転する直前、ふと、そう思った。




