09 六十一年前(春・前編)
流血、キャラクターの死にネタ等グロテスクな描写があります。
ご注意ください。
城内は重苦しい雰囲気に満ちていた。立ち止まって言葉を交わす使用人達も何処か遠慮がちにひそひそと声を潜めて話し、すれ違う人々は皆一様に表情を硬くして慌ただしく動いている。
北方の領都ノルデン近郊、黒の森に異常ありとの報が王都に齎されたのはつい先日の事だ。大人しく比較的害の少ない小型魔獣の姿が消え、中型以上の魔獣が森の外縁部で散見されるようになった。森の最深部で何か起きているのかもしれない。過去にも数度似たような事例がある事から、早々に騎士団と魔導師団の混成部隊が派遣されることになった。久々の大規模派兵に、皆緊張を隠せない。
北方騎士団では既に調査隊と外縁部の討伐隊を派遣しているらしい。春の初めに副団長に昇進したばかりのユリウス率いる先遣隊は昨日出立した。二日後にはシグリットやヒューを含む後発隊もノルデンに向けて発つ。
昨日と一昨日には激励と称して足繁く顔出ししていたナタリヤ姫は、ユリウスの出立を見送った後にはまるで興味を無くしたように姿を見せなくなった。後発隊には魔導師団長のシュレーゲル公爵や、今回の作戦の指揮官となる騎士団長ランベール侯爵など有力貴族も多いと言うのに残念なことだと騎士らは噂したが、お忙しいのだろうと結論付けたようだった。対して王太子妃エリザヴェータは騎士らの為に今日も顔を見せている。ナタリヤが来ない本当の理由を知っているシグリットは思わず顔を顰めた。
――この非常時に、色恋にかまけているとは。それも、略奪愛の。
派兵への緊張で、常になく苛立っているのを感じる。
「流石の貴女も緊張しているようね。大丈夫?」
留守番組の私が言うのもなんだけれど、とフィーネが気遣う言葉を掛けて来る。顔に出てしまっていたらしい。何度か小規模の討伐に参加したことはあるものの、今回のような大規模派兵は初めてだった。
薬師としてオルファレイス子爵の技術と知識を国の為に役立てよという国王自らの要請で登城したはずであったものが、魔導士としての可能性を認められてより僅か三年。凝り性で突き詰めねば納得できない性分が吉と出たのか否かはシグリットには分からなかったが、上級魔導士として国家規模の作戦に参加することになるなど、数年前の田舎暮らしの頃には予想すらしていなかった。
「緊張というか……不安、かな」
シグリットは無理に微笑んで見せたが、フィーネは痛ましげに眉根を寄せてシグリットの背を撫でた。黒の森の瘴気濃度の急上昇と魔獣の異常行動は、数十年に一度の頻度で起きる集団暴走の予兆によく似ていた。戦死者が出るかもしれない。そんな言葉がそこかしこで密かに囁かれている。
そんな不安を煽るかのように、城門から馬の嘶きと人々のどよめきが上がった。疲れ切って毛並みの艶がすっかり失われている馬から飛び降りた伝令の青騎士が、中庭の中央で魔導師団長シュレーゲルや王太子ジークフリートと話し込んでいた騎士団長に駆け寄る。
「申し上げます!」
「何事だ」
「黒の森に邪竜出現! 瘴気侵食によって凶暴化したワイバーンと思われます! 他にもマンティコアやコカトリス等の大型魔獣も多数確認! 既に周辺の街にも被害拡大中、負傷者、死者行方不明者多数! 急ぎ援軍を!」
中庭に詰める騎士や魔導士らに緊張が走る。騒めきは最高潮に達した。シグリットとフィーネも息を飲む。出立が早まる。今夜か、明日早朝か。果たして、指揮官の言葉は。
「全軍に告ぐ! 本日一六〇〇、黒の森邪竜討伐及び魔獣掃討作戦に向かう! 急ぎ、出立の準備をせよ!」
あと数刻しかない。シグリットは覚悟を決めた。なるようにしかならない。全力を尽くすのみだ。
「シグリット……」
フィーネが強く手を握り締めて来る。
「どうか、無事で」
御武運を、ではなく。短い言葉に込められた、ただ友人の無事だけを案じるそれに、フィーネの優しい心遣いを感じてシグリットは微かに笑った。
「ありがとう。貴女方も、城の守りをお願いね」
フィーネは泣きそうな顔に無理に笑顔を浮かべて頷いた。その友人の向こう側――厳しい顔で騎士らに目を配るジークフリートと目が合った。その口が何か言いたげに緩く開く。が、直ぐに硬く引き締められ、それから力強く頷いた。
――必ず、生きて帰れ。
この場に立つもう一人の友人の想いを受け取って、シグリットも頷いた。
交わった視線がどちらからともなく外された。
何とはなしに見上げた空は、黄昏時が近いのを知らせるかのように、薄茜色の領域を増やしていく。
――出立まで、もう間は無かった。
戦場は悲惨な有様だった。焼け焦げた木々の合間に魔獣の死体が散らばり、折れた剣や騎士服の切れ端が散乱している。外縁部の小さな村や町は魔獣に蹂躙され、集落を囲む柵は壊され、逃げ惑う人々が落としでもしたのか踏み荒らされた衣類や食料が辺りに散乱し、釜戸から引火した火が回り焼け落ちた家も数多くあった。先遣隊が到着した頃には既に事が終わった後であったらしい。生き延びた人々は城塞都市ノルデンに避難し、今は市庁舎の講堂に保護されているという。
だが、そこに至るまでに多くの命が散らされた。森から溢れ出た魔獣を討伐し、避難民を保護しつつ城塞に退避する為に、北方騎士団の二部隊が壊滅。残る部隊もほぼ潰走状態だったという。
閉じられた外門の内側には、回収された遺体が白い布に包れて安置されていた。いくつかの包みには剣と階級章が置かれていた。中に眠るのは騎士なのだろう。冷却魔法で腐敗防止処置を施され、いずれは遺族の元に還されるはずだ。
楽土に召された者達の為に、通り過ぎる人々は祈りを捧げて行く。
北方騎士団の基地では、集団暴走の第二波に備えて現地の騎士と先遣隊が慌ただしく駆け回っていた。先遣隊の指揮官だったユリウスは、後発隊の騎士団長の到着と共にその任を解かれ、今は副官として忙しく立ち回っている。
シグリットら後発隊の面々は、北方騎士に邪竜についての詳細を聞いていた。途中で先遣隊も合流して耳を傾ける。
「邪竜は今のところ森から浮上したところを目視で確認したのみだ。まだ森から出て来る様子は無いが、遅かれ早かれこちらに向かってくるだろう。集団暴走の発生は十中八九あれが原因だろう。あれの巨大な瘴気に中てられて逃げて来たんだ」
瘴気発生の仕組みは未だに謎とされているところが多いが、地中や大気中の魔素と、生物の負の感情が結合して瘴気に変化するのではないかというのが大方の見解である。
魔素は常に辺りに満ちているものだ。そして、怒りや悲しみ、憎しみの感情を持つ人間だけではなく、その他の動物や植物なども、その死の瞬間恐怖や痛みを感じるのだ。そういった負の感情は生物がこの地上に存在する限り無くなるものではない。必然的に瘴気は発生し、そして光が届かず、生命力に満ち溢れた生き物も多くは無い森の深部に瘴気は澱んでいく。たまたまその瘴気に中てられた獣が、魔獣化するのだ。
「それにしても、ワイバーンとは厄介だな。竜より劣る近縁種とは言え、腐っても竜だ。まずは下に撃ち落として、尾を切り落とさねば攻撃もままならん」
「ワイバーンなのは間違い無いのか?」
ランベールが尋ねると、北方騎士団の司令代理パスカルは肯定した。司令官は集団暴走の第一波で帰らぬ人となり、次席のパスカルが司令官代理として立つことになったようだ。
「遠見鏡でも確認したが、前脚は無く後ろ脚のみで発達した翼を持っていた。まずワイバーンと見て間違いは無いだろう。だが、高濃度の瘴気で変異したようだ。遠目にもかなりの巨体で、色は黒。動きは原種よりも鈍いが、変異種な分危険度は未知数だ。なるべくなら遠距離攻撃で翼と毒の尾を落としてから討伐に当たりたい」
「とすれば、やはり赤騎士団よりは魔導師団で確実に弱体化させた方が良いだろうな。上級以上の使い手となると、シュレーゲル殿の他には……」
「副師団長のワイアットと、あとはモリス、二コル、フィリベール、クロエ、それにシグリットの以上七名だ」
名を呼ばれてシグリットは無意識に唾を飲み込んだ。さり気なく隣を陣取っていたユリウスが気遣わしげに視線を寄越す。
ランベールが考え込む素振りを見せた。
「確かシグリット殿は大規模討伐は初めてだったな。上級魔法はどこまで使えるのか」
「四元素魔法と光魔法及び治癒魔法は全て上級までマスターしております。光魔法は一部特級、闇魔法は残念ながら不得手です。新参者ゆえ現場には不慣れではありますが、ご指示頂ければ如何様にも」
おお、とどよめきが走った。シグリットは気恥ずかしくなり目を伏せたが、隣のユリウスの方がかえって誇らしげで、妙な気分になった。
「さすがシュレーゲル殿の秘蔵っ子だな。なるほど……」
各団長とそれぞれの副長は僅かな時間話し合い、方針を決めたようだった。
「作戦の決行は明朝〇五〇〇。軍勢を主力部隊と補助部隊、先行部隊に分け、邪竜を半同心円状に包囲する。まず主力部隊だが指揮官をシュレーゲル殿、副官をユリウスとする。青騎士団第一、第二分隊を先頭に上級魔導士を各分隊に等分に配置。青騎士団第三、第四分隊及び赤騎士団第一から第三分隊、白騎士団第一分隊は補助部隊として、主力部隊の後方に一定距離を置いて半同心円状に展開せよ。残りは全て先行部隊とする。指揮官は俺、副官はワイアットと北方騎士団のパスカル殿。青騎士、赤騎士、白騎士と中級魔導士の混成部隊を結成し、これを先行させて小型、中型魔獣の掃討を行う。大型魔獣については発見次第優先的に排除。掃討完了次第、主力・補助部隊の後方に退避し、援護するように。以上だ」
ごくり、と誰かの喉が鳴る。邪竜討伐など恐らく数年ぶりだ。その姿を初めて見る者も多いだろう。
細かい打ち合わせに入るために、各部隊ごとに散っていく。シグリットは微かに震える手を握った。ユリウスが離れ際、誰にも気づかれぬように一瞬だけそっと背中を撫でて行った。元気付けようとしてくれたのだろう。
「俺達も行こうぜ。同じ部隊だ」
ヒューもまた、部下達を引き連れてシグリットを促す。深呼吸すると、その後に続いた。
危険度の高い作戦だ。万一討ち漏らせば領地全体に被害が及ぶ。なんとしても森の中で仕留めねばならない。
願わくは、誰一人欠ける事が無いように。
じわりと胸の奥底で頭をもたげて来る不安を打ち消すように、そう願った。
――願ったのに。
「――倒した……」
「やったか?」
「……やったっ……死んだぞっ……」
瘴気によって変異した邪竜は予想以上に手強かった。最期に重低音の咆哮を上げ、どう、と倒れ伏した巨大な邪竜はどす黒い体液を撒き散らして絶命した。翼は焼け落ち、尾は根元から断たれ、片目は潰れ、その巨大な口の中は無残に焼け焦げて異臭を放っている。
上級魔法によって翼を破き、地面に撃ち落として、騎士らの総攻撃を掛けるまでに多くの戦死者を出した。掃討作戦中に大型魔獣数体と交戦した先行部隊から十七名。邪竜の咆哮で立ち竦んだ隙に太い尾の強力な一振りに巻き込まれて八名。先走って突っ込み、鍵爪に引き裂かれて五名。口からの火炎弾で四名。翼を断たれて落下した際、激高した邪竜の顎に食らわれて三名、振り回された毒の尾に刺されて六名。この時邪竜の口に大氷塊、柔らかく傷付け易い目に鋭い氷柱を放って潰したのはシグリットだった。口内に大氷塊を放り込まれて炎の吐息を阻まれ喉元で暴発させて首が爆ぜ飛び、視界を半分奪われて怯んだ邪竜の背をユリウスが一気に駆け上り、その脳天にブロードソードを渾身の力で叩き付けるように突き刺して止めを刺した。
シュレーゲルによって邪竜が事切れているのが確認されたが、誰も歓声を上げる者は居なかった。犠牲が多過ぎた。圧倒的な疲労感と喪失感に皆その場に崩れ落ちるように座り込む。
変異種ゆえか思いの他魔法が通りにくく、中級魔法では痛手を与える事すら出来ず、やむなく戦いの序盤は上級魔導士に頼らざるを得なかった状況がシグリットらを酷く疲弊させていた。瘴気に侵された魔獣には光魔法が良く効く。一部特級魔法を取得していた光魔法を無理に連打したお蔭で、残存魔力は底を尽きかけていた。そこまでしなければ勝てない相手だった。初級の治癒魔法をあと数回使えるかどうかといったところか。シグリットに限らず、治癒魔法の取得者は似たようなものだった。重症者が多く、治療に駆け回り、誰も彼も魔力が枯渇しかかっていた。
「――よくやってくれた。貴兄らの尽力で掃討及び討伐作戦は完遂した。これより騎士団の諸君は負傷者の応急処置と戦死者の回収及び撤収準備、魔導師団は邪竜を含む魔獣の検分と体組織の採取に入る。……共に戦った仲間を失って辛いだろうが、もう少し踏ん張ってくれ。早く、連れて帰ってやろう」
生き残った者達の中から、微かな啜り泣きが漏れる。
「……シグリット。貴女も手伝って」
シグリットと同様に埃と魔獣の体液に塗れて酷い有様となったクロエが声を掛ける。体組織の採集が完了すれば、シグリットの役割は終了だ。頷き、なんとか膝に力を入れて立ち上がると、腰のポーチから採集用の小さなガラス瓶を取り出した。邪竜の死骸に近付き、医療用メスで体組織を切り取ろうとした、その時。
ぞわり。
異様な気配がして、振り返る。視線の先、地面に蠢くどす黒い水溜まりにも見える塊。それが、こちらを見たような気がした――瞬間、地面を滑るようにシグリット目掛けて迫り来る。
「なんだありゃ!?」
「おい、避けろ!!」
騎士達の叫び声に咄嗟に魔法を発動しようとするが、枯渇しかけた魔力での無理な発動に視界が揺れた。ふらついてたたらを踏む。
霞む視界の中、薄気味悪いスライムのようなそれが跳躍するのが見え、
(駄目だ、やられる――)
「シグリットっ!!」
覚悟して思わず目を閉じたその瞬間、誰かが自分の名を叫び、後ろに突き飛ばされるような衝撃に腰から倒れ込んだ。
「う、ああああああああああああっ!!」
絶叫が、耳を劈いた。見開いた目に映ったのは、見覚えのある、癖のある亜麻色の髪の、騎士団幹部のみが着る事を許される黒い騎士服の背中が――
「ユリウス!!」
自らを庇ったユリウスが、そのまま膝の上に仰向けに倒れ込んでくる。
がらんと音を立ててブロードソードが右手から落ちた。上半身を黒いスライムに張り付かれたまま、大きく喘いで酷く吐血する。黒く蠢く粘液状のそれが、肌を焼き、抉る。口内に潜り込み、腑を焼く。吐血、呻き声、吐血、吐血、
「嘘、何、何これ、ユリウス、」
ユリウスの身体を苛む悍ましい生き物を引き剥がそうとした手が、嫌な音を立てて焼かれた。瘴気が、毒が、ユリウスの身体を侵食していく。
「なんだこいつ、見た事無いぞ!」
「おいっ、魔法だ! 魔法で焼け!」
「馬鹿、四元素魔法は駄目だ! 副団長に当たる!」
なら、光を。
枯渇しかけた魔力を振り絞って初級の光魔法を放つ。ギィ、と軋むような鳴き声を立ててそれが身を捩った。
シュレーゲルが、ランベールが、そして余力のある騎士と魔導士らが駆け付けて来る。
「光魔法だ! 光が効くぞ!」
「一斉に打ち込め!」
騎士らが、魔導士らが、必死の形相で光魔法を放った。ユリウスの身体にへばり付く黒い領域が、徐々に削られていく。
『ギ、キィィィィィィィィィイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』
耳を劈く、女の悲鳴のような断末魔と共に、得体の知れない魔獣は蒸発した。
「やったぞ! 治癒魔法を急げ!」
「ユリウス! しっかりしろ!」
皆の手から治癒魔法が、解毒魔法が注がれる。
だが、戦友たちの呼び掛けも届かず、治癒魔法も及ばず、呻き声が上がる。
「……っぐ、あ、あ、」
ごぷり。再び吐血。吐息が、細くなる。
治癒魔法が効かない。どれだけ魔力を振り絞っても、効かない。
治癒魔法は身体の自然治癒力を高めて治癒する術。治癒力の行使には生命力を使う。故に、施術対象に治癒魔法が効かないのは、もうすでに、その者の生命力が――
ああ、もう、ユリウスは。
「……シグ、リット」
ユリウスが薄く目を開いた。光を失いつつあるその瞳が、シグリットの姿を捉える。その手が緩やかに伸ばされた。恋人の頬を撫でようとしたようだった。シグリットは彼の手を握った。血に塗れたままのその手を、強く握った。
ユリウスの唇が微かに動く。
――愛してる。すまない。
ずるり、と。握り締めた手が重みを増した。
光の消えたその瞳は、もう二度とこの世界を映さない。
「……嫌。ユリウス。目を開けて」
またいつものように、名前を呼んで。私を見て微笑んで。私に触れて。
ねぇ、ねぇ、
私を、
「置いて……逝かないで……!」




