08 六十一年前(冬)
ユリウスの求婚を受けてからは目まぐるしい日々だった。城勤めの合間を縫ってのキストラー家への訪問に始まり、シュレーゲル公や王家、同僚達への報告、そして式場の手配や披露宴の計画など、する事は山ほどあった。互いの伴侶の座を狙っていた者達からの風当たりは多少なりともあったが、概ね祝福してくれたように思う。王太子夫妻や友人達は心から祝福し、国王とシュレーゲル公は幼馴染の養女の幸福を祈って夜遅くまで酌み交わしたという。
「しかし、もっと早くに婚約の報告を聞けるかと思ったんだがな。まさか二年もかかるとは……」
「それはなんというか……すまない」
互いの忙しい日程を調整してようやく設けられた細やかな宴席。とはいえ、王都のそこそこに高級な料理店の個室を借りての宴席だ。シグリットには少しばかり敷居が高いが、誰かの自室では邪魔が入るからと、ジークフリート自らお忍び用の偽名で予約したようだった。彼がわざわざこの日の為に取り寄せた、ユリウスの好みだというオスティーユ産のワインを傾ける。渋みの強い赤ワインはシグリットの好みとは真逆だったが、それでもユリウス好みというのなら、それはそれで美味しいと感じてしまう自分の恋心に思わず笑ってしまう。
「だが、本当に良かった。二人とも私の大事な親友だ。下手な奴にくれてやるつもりは無かったからな、その二人が一緒になってくれるのならば、これほど嬉しい事は無い」
ジークフリートが万感の想いを込めて言う。王太子と知り合って片手に足りる程の年数しか過ごしていないシグリットは、自らを親友と言ってくれる彼の言葉に気恥ずかしくなって俯いた。王太子夫妻を愛称で呼び、気安い言葉で語らう事を許され、そしてその親友と婚約するという、田舎の下級貴族の養女の身分には過ぎた幸福に、軽く身震いする。
「どうした、もう酔ったか?」
耳元に口を寄せて囁くユリウスの吐息が掛かり、顔に熱が集まるのを感じる。
「おいおい、いちゃつくなら二人きりの時にしてくれよ」
「まぁ、殿方が二人して女性を揶揄うものではなくってよ」
どうやら揶揄われていたらしい。エリザヴェータに窘められて、男二人は人の悪い笑みを浮かべた。反応が初心だからつい、とユリウスが言って笑った。
「で、式はいつになる」
「社交シーズンが始まる前あたりだ。黒の森の件もあるからな。それが片付いてからと思っている」
「なるほどな。落ち着いてからというわけか」
懸案事項を思い出してジークフリートの顔が曇る。浮付いて華やいだ空気が、やや硬いものになった。
北方への増援隊の派遣で、黒の森の異変はひとまずは沈静化した。だが、まだ予断を許さない状況だった。観測員の予測では、年内にもう一度異変が起きる可能性があるという。砦に増援隊の一部を残し、監視を続けている。先だって副団長に任命されたユリウスも、何度か王都とノルデンを往復する事になるだろう。
「落ち着くと言えば……ナタリヤ姫の縁談は決まったのか?」
何気なさを装ったユリウスの言葉はしかし、その場の硬くなった空気をさらに硬化させるものだった。気まずい沈黙が下りる。
ナタリヤはジークフリートの年の離れた妹姫だ。ユリウスとシグリットの婚約が決まる少し前に海外留学から帰国したナタリヤは、帰国後三ヶ月にして既に国王の頭痛の種となっていた。
遅くに生まれた娘の躾を国王夫妻が手を抜いていたわけでは決してない。立派な教育係を付け、時には国王や王妃自らが手本となって姫を育てた。兄王子と同様、王族として必要な教養や学問もそつなくこなし、優秀な姫に育った。ただ一点、生来の勝気さ故か、我を通し過ぎるきらいがある点を除いては。
常に傅かれる環境にあっては矯正も難しいと考えた国王は、姫の国外留学を決断した。
東に隣接するスィーツァ王国の名門校ル・ローネ。著名な教育家が教師として数多く在籍し、多くの王侯貴族や富裕層の子女が通う全寮制の学院である。同じような身分の者達の中で揉まれ切磋琢磨して過ごす事で、欠点も改善されるかもしれぬと期待したのだった。
全過程を終了し、思惑通りに思慮深く淑女らしい振る舞いの姫に成長した――と思われていたのだが。
「アウフレヒト公爵家の嫡男ディートリヒ殿に内定はしているんだが、ナタリヤがどうしても嫌がってな。他に想う相手が居るのだとかで……」
公爵に不満があるわけではないが、どうしても嫁ぎたい殿方が出来たのだという。それとなく聞き出そうとしてはみるものの、口を割らないのだそうだ。さては既婚者か、身分違いの者か。道ならぬ恋なのではないかと周囲を心配させているのだ。
ディートリヒは三十路も近いというのに、歳離れた姫の為に縁談を伸ばしてくれているという事情もあり、王家としては直ぐにでも嫁がせたいというのが本音であった。
そして、建国時からの名家ではあるものの近年は弱体化しつつあるアウフレヒト家としても、ここらで是非とも王家と姻戚関係を結んで立て直したいという思惑もあるらしい。
シグリットはそっと目を伏せた。思い出されるのはナタリヤの視線だ。表面的には兄王子のように親しげに振る舞う姫の、その自分に向ける視線が気がかりだった。あれは、間違っても好意的なものではない。
妬み、嫉妬。
――それは、ユリウスとの関わりが増えた頃から一部の娘達に向けられている視線と同じものだ。
同時に、ユリウスに不必要に接触しようとする素振りを見せるのも、薄ら寒いものを感じさせた。腕に手を掛けたり、親しげに寄り添ったり、いつぞやなどは、乱れても居ない騎士服の襟を「襟が曲がっていてよ」と苦笑いしながら正して見せたのにはぞっとした。正面から、両手をユリウスの首に回す――まるで、恋人に口付けを強請るかのような仕草に、さすがのシグリットも眉を顰めてしまった。ユリウスも薄々気付いているのか、それとなく躱したり、姫の姿を見かければ気付かれないように立ち去ったりと、それなりにあしらっているようだった。万が一にも隙をついて既成事実を作られでもしたら目も当てられない。
そして、もう一つ。ナタリヤの第一侍女ヒルデリータもまた悩みの種だった。姫の後ろに控えつつもじっとりと値踏みをするように纏わりつくような視線を送ってくるのだ。あれは良くないものだ。あまり関わり合いにならない方がいい。
式を控える身で厄介な事になったものだ。内心溜息を吐く。
と、誰かが軽快に手を打ち鳴らす音がした。エリザヴェータはにっこり笑う。
「さぁさぁ、今日はもう楽しい事だけを考えましょう。せっかくのお祝いの席なのですもの。お料理もまだこれからでしてよ」
皆の表情が緩んだ。気持ちを入れ替えるかのように、グラスに新たにワインが注がれる。
「では、改めて。君たちの門出に乾杯」
そっと、四つのグラスが掲げられた。
シグリットは胸の底に澱んだ不安を打ち消すようにグラスを傾ける。ワインはやはり、口に苦かった。
親友の企画による宴席がお開きとなり、親友夫妻は迎えの馬車に乗る。同乗するかという誘いもあったが、酔い覚ましに歩いて帰るとユリウスが告げると、送り狼になるなよ、という揶揄が降って来た。それをユリウスは返事の代わりに拳を振り上げる振りをして見せ、ジークフリートは楽しそうに笑いながら帰って行った。
二人で宿舎までの道を歩いていく。仄かに黄味がかった乳白色の魔法灯が道を照らし、道なりに立ち並ぶ飲食店からは、時折明るい笑い声が漏れ聞こえて来る。建物が途切れ、川を渡る橋に差し掛かった。微かな水の匂いと、ちゃぷちゃぷと川べりで立つ波の音。それを肌と耳に感じながら、冬の夜の透き通った空気を吸い込むと、酒気で火照った身体が冷めていく。
「シグリット」
ユリウスが肩を抱いて囁いた。
「俺には君しかいない。君以外は考えられない。だから、君は今まで通りにしていてくれればいい」
「……ユリウス」
「決まった相手が居ると分かっている男に色目を使うような品の無い女はご免被りたいね」
誰とは言明しなかったが、明らかに特定の誰かを暗示しての辛辣な言葉に、シグリットは思わず苦笑いした。
「なかなか酷い言い草だね。でも、そういう人は早晩痛い目に合うのじゃないかな」
「そうだな」
ユリウスも笑った。そのままそっと唇を落としてくる。
「……ああ、早く君の花嫁姿が見たいな」
「私も、貴女の正装姿が見たい。きっと、目も眩むほど良い男前だわ」
美貌の王太子の姿も霞むほどに。そう付け加えたら、それは買い被り過ぎだとユリウスは声を上げて笑った。それから、幸せな式にしよう、と。言いながら、もう一度口付けを落としてくる。
重なる口付けは、微かにワインの味がした。




