神殺のお話 異編
これで、本当にお終い。
少なくとも、二人にとっては『Good End』
最後に憶えているのは、白い閃光。
全てを呑み込む眩い光。
そして朦朧とした、途切れそうな意識の中で、誰かが去り行く背中。
自身の身体から何か、温かい液体が流れつつあるのを感じながら。
その背中を見、彼女はこう思った。
―――もう、いい。疲れた。
何もかも。
今までの自分をつくり上げていた、その全てに。
目を逸らし続けていた事実にも。
思い出そうとしない過去の記憶も。
疲れてしまったのだ。生きる事に。逆怨みに。
もう諦めた。
諦めて、しまった。
―――
無量とも無数ともいえる、数え切れぬほどの神々の集まり。
八百万とも評される多くの神々の集い。
場は出雲。低位の『神様』から高位の、果てには最高位の『神様』すら寄り集う場所。
時は神在の月。地上に祀る『神様』の多くが不在となる時。
「皆、盃を持て!」
無限とも思える広大な空間に、一つの声が響き渡った。
艶のある黒髪を踝の辺りまで伸ばし、誰もが惹かれるであろう美貌を持った女性の声。
この空間に御坐す神々の中でも最上位に位置する、太陽の女神『アマテラス』だった。
彼女の言葉に呼応するかのように、あちらこちらから歓声が上がる。
杯を酌み交わす者たち、久方振りに再会する者たちなど。
多くの者がこの場を時を楽しんでいた。
その横に胡坐をかくのは『スサノオ』海を司る神だ。
腕や顔など至る所に傷跡が目立つ。彼の好戦的な面が見て取れた。
その顔には何か不満の色が浮かんでいる。姉の言葉など意に介さず、その視線は別の方向を向いていた。
視線の先にいたのは、この空間で唯一の人間。
黒い髪。黒いドレスのような衣服。女性だ。
一人盃を傾け、相も変わらず何を考えているのか分からない無表情。
地上の人間で最も力を持つ。だからある種の調停役として、特例でこの場所に招かれている。
だから、彼は気に入らなかった。
人間のくせに自分よりも強い『力』を持つ事に。
そのくせ、君臨はせず守る事はしない。
卓越した『力』を持つ者は、庇護する事こそが義務だというのに。
「やあ、ヤオ。久しぶりだな」
誰も寄せ付けないような雰囲気を破るように、一人が近づく。
光を発するような白い髪。そして白い衣服に身を包んだ、中性的な外見。
彼/彼女の名は『ヤゴコロ』という。
『アマテラス』と同格か、それ以上に位置する最上位の神の一柱。
「そうね。ここで会うのは久しぶりね。何の気まぐれかしら? アナタがこんな場所に来るなんて」
「たまには、ね。いや、たまには故郷に来るのも悪くはない」
「ふうん、それで? わざわざ私に会いに来たのは? 別に、親しいって間柄でもないでしょう」
「いや…そうだ、な。サヤの事で…」
その言葉を聞き、ヤオは不機嫌そうな表情を浮かべる。
当然だろう。ヤオとヤゴコロ、そのどちらもある一人の人間に特別な感情を寄せているのだから。
かつて一柱の神に生を救われ友諠を結び、その知恵を授けられた『サヤ』と呼ばれた人間。
もはや『神』と親交のある人間が消え失せた現代、その存在は奇跡のようなものだった。
「いまさら何よ。今までずっと、会おうともしなかったくせに」
「…ようやく、覚悟が決まった。会って、話したい。拒絶されるのならば、それでもいい。もう一度でいいんだ。頼む、ヤオ」
そう言いヤゴコロは深々と頭を下げた。
「…いいわよ別に。けれど、会う会わないを決めるのはサヤよ。身分と名を隠して会おうとするのは許さないわ。私は、伝えるだけ」
「それでいい。ありがとう」
そんな約束を二人が交わしている最中、何やら辺りが慌ただしい。
特に『アマテラス』の周囲には少なくない数が集まっていた。
彼らの表情は一様に険しい。
遡るのは十分ほど前。
乾杯の音頭が発せられた、ちょうどその時の頃だった。
―――
その場所は『カベ』に囲まれていた。
物質的なモノではなく、概念的なモノ。それが地平の彼方まで永劫と続いていた。
中へと繋がる『モン』はただ一つ。
その場所以外では、どのような手段を用いても侵入することは叶わない。
尚且つ『モン』には、一柱の神が座していた。
『アメノイワトワケ』
この場所、神々が集う界の出入口を守護する神だった。
かつて界が、最上位に匹敵する『呪い』に襲われた時も矢面に立ち、その身が『呪い』に冒されながらも使命を遂げた。
また、数え切れぬ『魔』や『妖』を討ち祓う、最初で最後の防衛線でもあった。
それは誇りであった。
守護を始め幾星霜。何人たりとも侵入を許さなかった事は。
この日は年に一度、多くの神々が界へ集っていた。
だからこそ彼は、一層に奮起していた。何人たりとも侵させぬ、と。
ふと、気が付いた。
どこまでも白い視線の先に、黒い影があることに。
徐々に近づく影。
それは彼よりもはるかに小さい。
彼の体躯の半分にも満たない、血にまみれた赤い影だった。
彼が知る限り、この界へ立ち入る人間は一人だけ。
その人間も、今は『モン』の中に立ち入っている。
赤い影の気配からは何も感じられない。
『妖』ならば『呪い』が、同じ『神』ならば『願い』が感じられるはずなのに。
だから彼は、赤い影を人間だと断じた。
「ニンゲンが、よくぞ立ち入った」
「…」
彼は赤い影を称えた。
それは心の奥底からの賞賛だった。
少ない数の『妖』が『モン』へ近づいた。
その全てが、他を隔絶するほどに強力な『妖』だった。
「どのように立ち入ったのか。それを聞くのは無粋だろう」
立ち入ったからには、何か理由がある。
あるモノは好奇心から立ち入ったと言った。
その『妖』とは対話の末、何もせずに帰っていった。
戦闘ともなれば、どちらもタダでは済まないと感じ取ったからだ。
あるモノは強敵との死闘の為に立ち入ったと話した。
武人然としたその『妖』と、七日七晩の死闘が始まった。
僅差、爪の先一つの差で勝利することができた。
だからこそ、彼は何者をも侮らない。
どのような者であれ、礼節と賞賛を持って相対すると決めている。
「しかし何故立ち入ったのか、それを聞こう」
赤い影は止まらない。語らない。
左腕は肩口から切り落とされている。
ダラダラと赤黒い血を流し、足元を汚していた。
「…」
「語らぬ、か」
それを最後に、彼は臨戦態勢へと入る。
空間を揺るがすほどの地響きが轟いた。
巨石を削って形を成した、彼の背丈に匹敵するほどの『岩楯』が、彼の武器だった。
ただ大きく、ただ固く、ただ重いそれは、だからこそ何よりも信頼に足る相棒。
赤い影が止まることはない。
長い長い赤い線だけが、どこまでも続いていた。
―――
「苦戦? イワトワケが?」
そう言葉を発したのは『アマテラス』
その視線は訝しげに満ち、報告をした下位の『神』を睨みつけていた。
ありえない。それが第一に感じた事だ。
門番として幾星霜。何者の侵入を許したことがない。
彼女が絶対の信頼を置く内の一柱。
その『アメノイワトワケ』が苦戦するなど…
重い空気が辺りに満ちる。
虚偽の報告だと笑い飛ばすこともできるだろう。しかし、下位の『神』がそれをしてどんな得があるのか。
もしも真実ならば。それを指摘した最初の者が、なし崩しで行かねばならなくなってしまう。
だからこそ、沈黙が辺りを包んでいた。
「私が行くよ」
その空気を破ったのはヤゴコロだった。
「いえ、しかし…貴方様の手を煩わせるなど…」
口籠る『アマテラス』
ある意味では、彼女よりも位階が上なのだ。
それに加え、かつて自身の身を救われた恩義もある。
「いいさ。今日は祝いの日なんだ。地に降りて穢れた私がいても、詰まらないだろう」
神聖な『天上』と穢れた『地上』
多くの神は『地上』を嫌う。特に『天上』で過ごす神の多くはその傾向が大きい。
だからこそ、彼/彼女は『地上』へと降りたのだ。
『ヒト』が信仰するからこそ『神』が存在できるというのに、それを見下すから。
今日を最後に、もう来ないつもりだった。
それは、隣にいるヤオも同じのハズだ。
「ヤオ、一緒に来てくれないか?」
「嫌よ面倒くさい。誰が死のうが、私には関係ないわ」
ヤオは変わらない。
彼女にとって、神が死のうが生きていようが。
遥か昔に、何かを信仰する事を諦めたからだ。
だが、その言葉に激怒したのは『スサノオ』だった。
腰に携えた剣を抜いた。刃がところどころ毀れた、古びた剣。太古、大蛇を退治した神剣『天羽々斬』だ。
彼は怒気を収めようともせず、周りの制止を振り切りヤオの前に立った。
「手前ぇ…ニンゲン風情が調子づくんじゃねえぞ」
『天羽々斬』が白く燐光を始めた。
彼の『力』が神剣へと流れ、白く光る粒子が漏れ出る。
かつて天上を追放され、しかし地上に蔓延る多くの『妖』を狩り崇められ、再び天上に住まう事を許された無二の神。
彼は何よりも強かった。だからこそ、それは破壊の象徴だった。
しかしヤオは、心底詰まらなさそうに言う。
「君臨するだけなら誰にだって出来るわ。愚者であろうが、隔絶する『力』があれば、ね」
ヤオはどこからともなく、刀を取り出した。
何の変哲もない、僅かに反った日本刀。
その本質は『何も斬らない』そんな概念が凝り固まった刀。
何よりも優しく慈悲深く、だからこそ容赦がない。
しかし『スサノオ』は険しい顔を崩さない。
ヤオの『力』の総量は自身をも上回っているのだ。
油断などしない。する筈がない。一度侮り、手痛い敗北を味わっているからだ。
「けれど、それは支配よ。誰からも慕われず、恐怖による支配。まあ、統治するのなら、その方が都合がいいのかもしれないけれど」
「手前が言えた事じゃねえだろうが。自分勝手に振舞いやがる。相応の『力』があるんなら、相応に振舞え」
「私は君臨する気などないわ。こんな不愉快な場所にいるのも、貴方の姉から懇願されたから。もう来ないけれど」
『力』の奔流が周囲を襲う。
周囲の『神』は吹き飛ばされ、同程度の『力』を持つ『神』は相殺し被害を止めた。
しかしヤオは違う。切先を奔流へと向けただけ。
奔流が切先に触れた瞬間、白い奔流が分かたれた。
その現象に周囲の『神』は驚愕した。
圧倒的な『力』を以ての消滅でも、同等の『力』を放出しての相殺でもなく、奔流そのものに干渉したのだ。
「さっさと行ってきなさいよ、ヤゴコロ。約束、果たさなくていいの?」
「…ああ、行ってくる」
―――
焦っていた。彼は。
何度殴り飛ばそうと、何度叩き潰そうと、立ち上がる。
夥しい血に塗れ、地べたを転がり、血反吐を撒き散らそうと、何度も何度も何度も。
卓越した『力』はない。驚異的な『力』もない。
ただひたすらにただ立ち上がりただ、愚直に向かってくる。
―――まさか、不死か…?
その考えが彼の頭を過る。
あり得ない。彼の知る限り、そのような『力』を持つ者はただ一人。
偶然と奇跡とが針の先ほどの確率で絡み合い、偶発的に生まれたのだ。
一つ、深く息を吐く。
不死身とは『呪い』である。
何をしても死ねず、何をしても生きなければならない。
心臓を貫かれようと死ねず、頭を落とそうと半身を消し飛ばされようと、生き続ける。
なんと哀れな事なのだろう。
親しい者と同じ時間を生きられないなど。
だから、彼は『力』を行使した。
一瞬の事だった。
不可視の何かが赤い影を覆い、そして消え去ったのは。
彼の『力』は境界を創り出す。
それは世界の遍く何かを隔てる結界を創る『力』よりも、さらに上位に位置する『力』だ。
膂力ではどうにもならない、しかし見過ごせぬ相手にのみ、この『力』を行使すると決めている。
しかし、最上位に食い込むほどの『力』を持つ彼とて、その負担は大きい。
岩楯を傍らへ横たえ、片膝をつく。
彼は何をしたのか。
赤い影の周囲に境界を創り出し、別の空間と連結したのだ。
境界に閉じ込められた者は成す術もなく、別空間へと放逐される。
彼にのみ許された『力』の一端。
再び息を吐く。
傍らに置いた岩楯を持ち上げ『モン』の守護に当たろうと立ち上がろうとする。
―――ピシ…
何か、割れる音がした。
視線を向ける。
腕が生えていた。
血に塗れた赤い腕が。
―――ヒイイイィィィイィィィィ!
空気が切り裂かれるような甲高い音。
世界の悲鳴だ。
世界を成り立たせる境界を破壊され、負荷がかかった結果だ。
背筋が冷たくなった。
そして、何百年ぶりかの危機を感じた。
ここで打ち倒さなければ、より大きな脅威となる。
岩楯を持ち上げ、その大質量で赤い影を押し潰そうとした。
事も無げに受け止められた。
血に塗れた、細い右腕一本で。
その衝撃のせいだろうか。
空間の亀裂が広がり崩れ落ちた。
姿を現したのは間違いなく、先ほど別空間へ放逐したそのモノ。
岩楯に罅が入る。
彼の生涯殆どを共にした相棒に、呆気もなく。
そして気づく。
最初に相対したあの時とは『力』の総量が全く違うことに。
今まで、先ほどまで戦っていたモノと、本当に同一なのか。
岩楯が割れた。
全てを冒す『呪い』を、全てを熔かす『狐火』を、相対した全てを受け止めた楯が。
粉々に砕け散った。
惜しむ間もなく拳を振り下ろす。
受け止められる。ビクともせず、右腕が引きちぎられた。
血を流しながらも、彼はどこか冷静だった。
単純な膂力でも敵わず、自身が誇る『力』も打破された。
ならば、自らを打ち倒した敵を讃えるのみ。
「見事っ…!」
赤い影の右腕が薙がれた。
彼の半身がずり落ち、そして意識が途絶えた。
―――
彼/彼女が到着したのは、丁度その瞬間だった。
巨体の上半分がずり落ち、血を噴出して倒れ伏した。
永い間、守護を続けた神が、呆気もない最期を迎えた。
その光景を、彼/彼女はどこか信じられなかった。
『神』は簡単に死なない。
信仰されなくなり忘れ去られ、生きる意志を見せなくなった時、その『神』は消え失せる。
―――まさか。
『神殺』という概念が存在する。
ただただ『神』を殺す事に特化した武具や技術の事だ。
その生涯を『神』を打ち滅ぼす為だけに研鑽を続けた一族の揮う技。
最愛の者を贄と捧げた鍛冶師が打った一振りの刀剣。
その殆どが凶器の産物だ。
いるかも知れない『神』を殺す為に、その半生を捧げるなど。
正気の沙汰ではない。
だから。
彼を殺した赤い影も、その類なのかと視線を向けた。
返り血に染まったせいなのだろう。その頭髪は真っ赤に染まっていた。
しかし斑に白い輝きが見える。元は白髪なのだろう。奇しくも彼/彼女と同様に。
その手には何も持っていない。
つまり、武具を用いずに神殺しを果たす。それだけの『力』を持つということだ。
その表情は窺い知れない。
強大な『神』を打ち倒したというのに、何も思っていないようだ。
そしてどこか呆然と立ち尽くしている。
そしてふと、感じた。
何故か、如何してか、何処か。
空気、というのだろうか。それとも別の何かか。
似ていたのだ。
かつて、友として親交を深めた、一人の人間と。
ふらりと、赤い影と視線が合った。
その視線からは、ただ一つの感情が見えた。
それは―――
次の瞬間、赤い影が彼/彼女の眼前に出現した。
まるで気配を感じなかった。空間転移でも使ったかのように、一瞬の事だった。
赤い影が右腕を振り上げた。
しかし何も感じない。驚く間もない。
彼/彼女は、もっと別の事に驚愕していたからだ。
「―――サヤ?」
「―――あっちゃん…?」
眼前で停止する右腕。
間違えるハズがない。
忘れられるワケがない。
他の何を忘却しても。これだけは決して。
かつて共に過ごし、友好を育んだ親友を。
ニンゲンを。カミサマを。
「どう、し―――」
どちらの声だったのか。
その続きは、赤熱する剣状の塊が制してしまった。
胸を貫かれ吹き飛ばされる赤い影―――いや、サヤと呼ばれたニンゲンだったモノ。
数十メートルは宙を飛び、そして停止した。
胸を貫通するそれは炎を吹き出しサヤを包む。
あらゆる物を貫き灰と滅する。その『力』を持つ者を、彼/彼女は知っている。
太陽の化身であり、この空間の主ともいえる、一柱の『神』を。
「お怪我は、ヤゴコロ様」
「あ―――どうし…いや、怪我は、ない」
「それは重畳。ヤオと愚弟を治めるのに手間取りましたが、なんとか間に合ったようで」
もう彼女は、アマテラスは終わったつもりなのだろう。
彼女の『力』は究極といってもいい。
世界に遍く全てを灰とするのだ。抗う事はできない。
それが、彼女の常識だった。
燃える、燃え続ける。
十秒、一分、三分。
そしてアマテラスは訝しむ。
長すぎたのだ。骨肉を灰とする強度の炎。遍く全てを灰と化すのに、だ。
燃え続けるということは、燃える要素があるということ。
―――ギシ、リ
サヤが、動く。
未だ炎に包まれ燃え上がりながらも、動いている。
心臓を貫く炎剣を残された右腕で握り、力を込める。
すると呆気もなく、炎剣が砕け散った。
役目を果たして燃え尽きるのではなく、無理矢理に破壊された。
永い永い生の中、この事態は初めてだった。
だからこそ、彼女に隙が生まれた。
わずか一瞬の隙は致命的だった。
黒く焦げ付いた表皮を撒き散らしながらアマテラスの眼前へ迫る。
残された右腕を突き出したサヤ。
狙いはその心臓だった。
―――ギ、ヂン
甲高い金属音。
衣服は僅かに破れ、細かな傷が目立つスサノオだった。
刃の毀れが目立つ古びた刀で、自らの姉を守ったのだ。
「つっ…手前ぇ、何だその形」
「…」
「喋れねえのか。だが言うぜ。そんな神でも妖でも人でもねえ形してる輩、初めて見たぜ」
「…うるさい」
サヤの右腕と、スサノオの天羽々斬。
奇妙な鍔迫り合いが続く。どちらも退かない攻撃。
しかしその均衡は呆気もなく崩れ去った。
「気持ち悪い。いらねえよ手前、この世界に」
「…うるさい!」
サヤが右腕を振るった。
抗う事なく宙を舞ったスサノオに追撃が加わる。
打ち下ろすように右腕で殴りつけるも、いなされる。
勢いのまま投げつけられる。
こればかりは経験の差が表れた。
短い接敵ながらスサノオは、その特性を察していた。
永い年月を闘いの中で生きてきた乱暴者と、今の今まで人だったモノ。
当たれば神を屠る『力』も、当たらなければ意味がない。
相変わらず右腕での攻撃に拘るサヤ。
徹底的に刀で防ぐ事に拘り、僅かな隙を見つけては斬り付けるスサノオ。
徐々に、徐々にサヤは劣勢になっていく…と思われたが。
徐に、右腕を突き出す。
手首から先は、まるで何かに埋まっているように見えなくなった。
振り下ろす。
―――ヒャアアァァアアァ!
鋭い悲鳴にスサノオの背筋が粟立つ。
空間を、世界を破壊した時のその現象は、彼をしても初めて経験するものだった。
だから、反応が遅れた。遅れてしまった。
目の前にサヤが出現した。
一瞬の間もなく、気づいた時には居たと表現するしかない。
空気の動きも気配の移動も、五感で感じられる全てと六感を超える感覚でも。
血飛沫が上がった。
しかしそれはスサノオではなく、サヤの物だった。
心臓を貫くのは、一振りの刀。僅かに反った日本刀。
その刀に、スサノオは見覚えがあった。
何せ先ほどまで、嫌というほど苦戦していた人間が振るっていたのだから。
「終わりね。もう」
今までの暴れようが嘘のように、うつ伏せに倒れるサヤ。
炎剣が心臓を貫いた時も、岩楯に幾度も叩き潰された時も。
何度も蘇り立ち上がり続けたのに。
「ヤオ、手前ぇ…」
「煩いわ。口を挟まないで」
倒れ伏すサヤと憎々しげに睨みつけるスサノオをしり目に、ヤオは傍観をしていたヤゴコロへ近づく。
アマテラスは腰を抜かしたように、ペタリとへたり込んでいた。
「ヤゴコロ」
「…サヤだ。あの…アレは」
痛々しげに顔を歪め、悲しげな目で言うヤゴコロ。
対してヤオは至極淡白に、感情の籠らない声で言った。
「見れば分かるわ。アナタと一緒にしないで」
「…どうして、だ。ヤオが傍にいながら、どうしてあんなモノになった!」
ヤゴコロは感情のままにヤオに掴みかかる。
かつての親友。唯一心を通わせた人間。
それなのに、神を殺す事だけに特化した、人でも神でも妖でもないモノに成り下がった。
これは糾弾だった。
彼/彼女なりの。
しかしその糾弾にも、ヤオは冷たく、こう返した。
「そう。アナタは否定するの」
ハッとするヤゴコロ。
自分はなんと言った?
サヤを、親友をあんなモノと。
まるであの時と、何年も前のあの時と同じではないか。
サヤをサヤとして認めない、否定の意思ではないか。
「私は違うわよ。これから一緒。ずっとね」
「なにを、するつもりだ、ヤオ」
柔らかい笑みを浮かべるヤオ。
ヤオと知り合って以来、こんな笑顔を見るのは、ヤゴコロは初めてだった。
「償ってもらうわよ、ヤゴコロ」
「…何を、させるんだ」
「終わらせるのよ。全部」
―――
意識が、戻った。
何か、大切な事を忘れたような感覚があった。
心にポッカリと穴が空いたような。そんな空虚が。
そうだ、忘れていた。
殺さないと。神様を。
胸に開いた傷が塞がっていく。
彼女はもう、死ねない身体に成り果てていた。
『法則』となっていたのだ。
『力』が発生した時に生まれる、相反する『力』
『法則』の体現、つまり『現象』である神様だけを殺す『法則』
全ての神様を殺す、殺し尽くす『法則』だ。
だから、神様の『力』は通用しない。
上位である『アメノイワトワケ』の攻撃を受けても、最上位である『アマテラス』の炎剣を受け死ななかったのもこの為だ。
ダメージは追うが、死なない。死ねない。
加えて、元来人間であるその身体は、危機に陥るとそれを打破する為に強靭になる。
傷付けば付くほど強くなり、それに上限はない。
今、彼女を突き動かしているのは、何か。
少なくとも『悪意』や『怨み』ではない。
何故なら、彼女は諦めていたから。
ゆっくりと身体を起こし、視線を『モン』へ向けた。
向こうから、多くの気配を感じる。
行かないと、いけない。そうだ、殺さないと。
「サヤ」
名前が呼ばれた。
自分の名前。大切な、自分の名を。
忘れてはいけない名を。
「ずっと一緒よ」
抱き締められた。
あたたかい抱擁だった。
強くとも優しく、柔らかいにおい。
「これから、ずっと」
ずっと望んでいた。
誰かと、ずっと一緒でいる事を。
誰かに否定された記憶が忘れられない。
誰かに拒絶された記憶が脳裏に浮かぶ。
だから、自分には価値がないのだと信じ込んでいた。
けど。
私を求めてくれる人がいる。
抱き締めてくれる人がいる。
必要としてくれる人がいる。
それだけで、今までの全てが報われた気がした。
「やお、さん。やおさん、やおさんやおさん」
強く、抱き締め返す。
強く、名前を呼ぶ。
強く強く。
「やおさん、ずっといっしょ、です」
「ええ。ずっと、ね」
幼子のように甘えるサヤ。
母のように抱擁するヤオ。
その姿は、まさに母子だった。
あたたかい抱擁が数秒続いた。
二人の胸に一本の刀が突き刺さった。
ヤオの陰、背後から突き刺された日本刀は、サヤの胸をも貫いた。
刀を使ったのは、ヤゴコロだった。
何も斬らない日本刀。
何よりも優しく慈悲深い。だからこそ容赦がない。
全てを斬らない鈍刀。何物をも斬れないからこそ、しかし何物よりも硬い。
それは『不壊』という『法則』にすら届いていた。
何も斬らない『法則』の基に成り立っている刀。
だから、この刀を用いて斬られたモノは、傷一つつかない。
しかし。矛盾は許されない。何も起こらない事は許されない。
無限に再生する身体。永劫に続く術法。膨張する世界。
これは外部からの拒絶だ。自身のみで完結する哀れなモノたち。
だからこそ自壊する。斬られたモノは、自ら崩れる。
これらに引導を渡すことの出来る唯一の『法則』の具現だった。
胸を貫かれても、二人は笑顔だった。
永劫の時を、永遠に二人で。
少なくとも彼女たちは、幸せだった。
胸を貫かれた二人を、水晶のような結界が包み込む。
ヤゴコロの『力』で創られた、世界から隔絶する結界。
誰にも何にも干渉されない、究極の拒絶。
これが彼/彼女ができる精一杯。
水晶が赤く染まる。
それと同時、二人の姿が赤に溶けるように消えていく。
そして遺されたのが、二メートルほどの巨大な赤い水晶。
ヤオとサヤ、二人が生きた証だった。
・赤い影/サヤ
詳細:
神様の御座す世界に突如として現れた、人でも妖でも神でもないモノ。
失われた左腕の断面からは止まる事なく血が流れ続け、顔の半分は血に染まっている。
正体は全てを『諦め』しかし『生きた』榮 沙弥その人。
神様の攻撃を受け致命傷を負うも、しかし死にきれなかった彼女はその身を変貌させた。
彼女は『法則』となり、思考の大半は『神様を殺す』事に支配されている。
『神様』を滅するべく、新しく発生した『法則』である。その身に『神様』の攻撃は意味をなさない。
臨死状態で『法則』となった為『法則』のままに行動している。
門を守る『アメノイワトワケ』を襲撃したのも、出会う神様を次々と襲ったのもそのため。
その『力』は死ぬたび傷付くたびに上昇していく。
当初は門番に手も足も出なかったが、別空間へ閉じ込められた際に爆発的に上昇。
世界を破壊する『力』に覚醒した。
経験値の差もあり『スサノオ』には及ばなかったが、気配も空気の動きも感じさせない移動は、彼に驚愕させるのは十分だった。しかし『鈍刀』により心臓が自壊し、行動不能に陥る。
最終的に『ヤオ』と二人で永劫に封印される事になった。
最後、彼女は心よりの笑顔を浮かべていた。
少なくとも、彼女たち二人は歪ながらも幸せに、一緒にいる。
・ヤオ
詳細:
黒い女。一応の義理を果たす為、神様の御坐す世界へ赴いた。
乗り気ではなかった為、言いたいことだけ言って帰るつもりだった。
しかし、サヤが神様を襲撃していると知り、自らの終わりを決めた。
不死身すらも殺す『鈍刀』を持ち出したのもその為。
サヤを抱きしめ『一緒にいる』と言葉を伝えた。
その二人の姿は歪ながらも、母娘のようだった。
・ヤゴコロ
詳細:
白い神様。本当に久しく、年に一度の会合に出向いた。
その目的はヤオへ、サヤへの面会を依頼するため。
帰るついでに門へ赴くも、そこで神殺しの再現を目撃した。
それを行ったのが、親友である人間であると気付き、呆然としてしまった。
人でなくなったサヤを彼/彼女は否定した。
それは親友への、再びの拒絶と同意義だと気づき、涙ながらにサヤとヤオを貫いた。
その直後、自らの『力』により全ての干渉を拒絶する結界を張り、二人だけの世界を創り出した。




