五話 お宅訪問からの
月日は流れ、じめじめとした梅雨が明けて、すっかり夏の陽気になった。
「ほしー、地理の教科書かしてー」
ひょっこりと顔を出した観月に、佳澄はうんざりしたような顔で立ち上がる。
「またか……次は?」
「数学」
「いっつも数学持ってないな」
小言を言いながら机から教科書を取り出し、観月に渡す。
「助かった、昼休み終わりくらいに返しに来るわ」
「明日でもいいよ、今日使わないし」
この光景も当たり前になった。
最初こそクラスメイトも驚き、佳澄もどこか居心地が悪かったものの、今となっては至って普通の友人同士の交友の一つになり、ほとんど誰も気に留めることがなくなった。
「じゃあな」
「ん」
さっさと教室に戻っていく観月を見送ると、佳澄は自分の席に戻った。
「もうすっかり仲良しじゃん、佳澄?」
佳澄の前の席に座り、ニヤニヤと頬杖をつきながら笑う佐藤に、佳澄は机から教科書を出しながらため息をつく。
「そんなことないよ。単に帰り道が一緒で帰ってたら話すようになった感じだし。
それにあいつからすると、俺は都合のいい教科書置場なんじゃない」
「そう? それにしては楽しそうだし、佳澄が「あいつ」なんて言うヤツ、俺あんま知らないけど」
「は?」
「いつも相手の名前で呼んでるでしょ。誰かに話す時に「あいつ」って言うの、結構気許してる相手のことだけだよ」
ケラケラと笑う佐藤から視線を逸らして口を尖らせると、また楽しそうに笑われる。
「……でもさ、気をつけなよ。あいつ確かにいいやつだけど、吉村先生って山里のこと嫌いだし。佳澄は吉村先生と仲いいでしょ」
トーンの変わった佐藤に顔を向けると、いつになく真剣な顔で真っすぐに佳澄を見つめていた。
こういう時の佐藤がかなり本気の話をしていることは、よくわかっている。
同時に、以前言われた「あまり交友を深めるのは感心しない」という言葉も思い出した。
結局あれ以降吉村が何かを言ってくることはなかったため、この話が出るまで言われたことを思い出さなくなっていた。
「ああ、吉村先生、優等生タイプが好きだしなぁ」
「そ、佳澄みたいなさ」
「そうだと嬉しいけど、先生ってみんなにそうじゃない? いや、山里には厳しいか」
そりゃそうだ、と佐藤はまた顔に笑みを浮かべた。
「……ねえ佳澄」
「ん?」
「正直、こういう話好きじゃないんだけど」
そこまで言った時、授業開始のチャイムが鳴る。それと同時に、英語の教師が教室に入ってきた。
「あー。いや、いいや、また機会あったら話す」
「そう、わかった」
佐藤は普段、こういう中途半端な話し方をするタイプではない。
余計なことは言わないが、しっかりと意見を持って必要なことを必ず伝えてくれる男だ。
だからこそ違和感があったものの、佐藤なら必要な時に必ず言うだろうと思い、それ以上触れることはなく、いつの間にかこの会話も忘れてしまった。
*****
生徒会がない日は二人で下校するのが、すっかり習慣になった。
佳澄が自転車を引き、観月がその隣を徒歩で帰宅する。いつものスタイルだ。
「で、その家族がまぁ仲良さそうでさ、配膳する犬見て超笑ってんの、赤ちゃん。めっちゃ癒える」
「ほんと子供好きだよね」
アルバイトの話、小中学校の話、その日起きた学校の話。
なんてことはないこの時間が、二人にとって大切な時間でもある。
ふと、佳澄が何かに気づいて上を向いた。
つられて観月も顔を上げれば、頬に冷たい雨が落ちた。
それに気づくとほぼ同時に、大粒の雨が次々に落ちてくる。
「げ、降ってきた」
「最悪、俺今日傘ない」
「ならうち来いよ」
「は?」
こっち、と駆け出す観月につられ、佳澄も自転車を押しながら駆け出した。
*****
観月の家は二階建てアパートの二階角部屋だった。
相当古そうな見た目で、外壁には所々ヒビが走っている。二階に上がるための外階段は少し錆びた鉄製のもので、カツンという音を立てて上がるたびに、いつ折れないかと不安が出る。
観月いわく、近々階段の改修工事を行うらしい。
「狭い家だけど、適当にしてて」
室内は和室の二間。古びたタンスに紐を引くタイプの蛍光灯。キッチンは居間の奥にあるという、佳澄にとってドラマでしか見たことのない景色が広がっている。
観月は濡れたシャツを脱ぎながらエアコンのスイッチを入れ、奥の部屋に入っていく。
お邪魔しますと言っておずおずと中に入れば、二十二インチほどの大きさのテレビの横に置いてある写真立てに目が留まった。
区立第一高校入学式と書いてある看板の前で笑いながらピースサインをする観月を中心に、左右に男女が立っている。恐らく観月の両親だろう。
女性は腰ほどあるウェーブのかかった髪に派手な見た目。男性は泣いたのだろうか赤い目をしていて、黒髪をしっかり撫でつけた真面目そうな風貌をしている。
微笑ましい家族写真に顔を緩めていると、足音が佳澄の後ろで止まる。
「タオル使え。あとうち麦茶くらいしかねーわ。菓子もねえし」
「気にしなくていいよ、避難させてもらっただけありがたいし」
佳澄は眼鏡を外すと髪を拭き始める。
多少濡れたものの、あの十字路からそう遠くない家だったためすぐに乾くだろう。
Tシャツにジャージというラフな格好に着替えていた観月は、グラスに麦茶を注いで部屋の中心にある座卓に置いた。
「とりあえず雨やむまで居ろよ、今日はバイトないから家にいるし」
「色々ありがとう、助かる」
麦茶を貰いならがら、ふと現状を整理して、体を強張らせる。
そんな佳澄に目もくれず、観月はリモコンを操作してテレビをつけた。
「そういえばさ、俺なんでお前のこと誉志って呼んでんのかな」
「は?」
唐突な発言にぽかんと口を開けば、頬杖をつきながらテレビに目を向けたままの観月が続ける。
「いや、俺元々名字より名前で呼ぶほうが好きなんだわ。そのほうが仲いい感じするし」
「そ、そう……」
「てなわけで、これからは下の名前で呼ぶから、佳澄も俺のこと下の名前で呼んで」
沈黙が落ちる。
圧迫されるものではない。しかし視線の絡まない、どこか居心地の悪いような空気が流れていた時。
「ただいまー!」
沈黙を破るように、女性が豪快に家に入ってきた。
「いやー降られた最悪ー、観月、タオルちょーだ」
言葉を切って女性は驚いたように佳澄を見た。写真立てに映っている女性だ。
佳澄は居住まいを正すと、礼儀正しく頭を下げた。
「お邪魔しています」
「あ。お邪魔されてます」
「いやその言い方失礼だろ。こいつダチの佳澄。佳澄、これ俺の母親」
「親に向かってコレって言ってんじゃねーよ!」
観月からタオルを受け取りつつ声を荒げた女性、山里 美月に驚いて小さく体を跳ねさせると、美月ははっとして恥ずかしそうに口元を手で隠して笑う。
「やだ恥ずかしい、ごめんなさいね。うちの観月がナメた口きくからつい」
「取り繕えてねえから、とりあえず素でいろって、佳澄なら平気だろ」
そう言う観月に視線を送られ、佳澄はにこりと笑って頷いた。
「はい、若くて綺麗なお母さんだなって驚いただけです」
言い終わるとほぼ同時に、美月が強めに観月の背中を叩いた。
なかなかいい音が部屋に響く。
「いって!」
「観月聞いた今の! 若くて綺麗なお母さんだって。ちょっといいダチ捕まえてんじゃん」
「背中ぶっ叩く母親はいい母親じゃねえよ」
「なんだとクソ生意気な!」
二人のじゃれあいを見ながら佳澄が笑っていると、そうだ。と美月が口を開く。
「そうだ。佳澄君、晩御飯食べてく?」
「え?」
「まだ雨降ってるし、アレルギーとか大丈夫なら食べてきなよ」
「い、いえ、申し訳ないですし」
「いいんじゃね? 母さんもこう言ってるし、食ってけば?」
なんだかんだと、山里家でご飯を頂くことになった。
雪子に連絡を入れたら、『かず君の家以外でご飯を頂くなんて小学生以来ね。楽しんでおいで』と返ってきた。
しばらく後。
山里家は宴会になっていた。
決して広いと言えない山里家に観月と両親、その友人家族二組が集まって食事をとっている。
「よう佳澄君、もっと飲め飲め、ジュースだけどな!」
と豪快に笑う観月の父、山里 佑月は上機嫌に佳澄のコップにオレンジジュースを注ぐ。
佑月は見た目こそ真面目なサラリーマンだが、友人家族を連れて帰ってきた時には上機嫌で。その風貌からは想像できないほどに明るく、口調も荒かった。
しかしその口調とは裏腹に、とても気遣いができて周囲を見ており、それに気づくと、最初は怖さを感じた佳澄もあっという間に気を許していた。
「ありがとうございます、よければお酒注ぎますよ」
「ぉ! おい観月、いいダチできたじゃねえか!」
きゃっきゃと楽しそうに友人夫婦の子供三人と遊んでいた観月を小突くと、突然突かれたことに驚いた観月が顔を上げる。
「なんだよ、ビビって崩れちまっただろうが!」
見てみると、子供達と観月の中心にトランプが散らばっている。トランプタワーを作っていたようだ。
それを見た佑月が呆れた顔でため息をつく。
「おいおいダチ放っておいて遊ぶなって」
「オヤジがずーっと話してるからだろうが」
やいやい言い合いを始めた二人を眺めていると、友人夫婦の奥さん二人が佳澄の肩をちょいちょいと叩いた。
「うるさくてごめんね、こんな宴会に参加するなんて、そうそうあるもんじゃないでしょ」
「怖くない? 嫌だったら言いな」
「いえ、明るくて楽しいですよ」
あんたいい子だね~、と二人に言われながらジュースを飲んでいると、ふと。
「そういえばさ、佳澄君って呼んじゃってるけど、名字なんての? 名前呼び馴れ馴れしくてウザくなかった?」
「いえ大丈夫ですよ、気にしないでください。名字は誉志って言います。誉志佳澄です」
「「誉志!?」」
突然の大声に、その場の空気が止まった。
「えっと、どうしました?」
苦笑している佳澄に、二人は興奮気味に前のめりになる。
「ねえ、誉志って、まさかあの誉志?」
「あのでっかい家の」
「どの誉志さんかはわかりませんが、うちはここから自転車で二十分くらいのとこの、ちょっと外れたとこにあります」
「やっぱり!」
思ったことが当たって嬉しいのか、高い声で盛り上がっている二人と対極的に、美月が「ほー!」と声を上げた。
「もしかして、茶道の教室やってる誉志さん?」
「はい、ご存じなんですか?」
佳澄の言葉に美月が、あははと面白そうに声を上げて笑う。
「そりゃ知ってるよ。このへんじゃ知らん大人いないんじゃない? あんだけでっかい家だったら目立つし」
この時、佳澄は改めて自分の家が他者からどう見られているのかを実感した。
自分達を知っているのは芸事や茶道などを嗜んでいる人達くらいだろうと思っていたが、旧家家に住んでいるのは良くも悪くも目立つのだろう。
「そうなんですか。確かにお茶のお稽古とかしてるので家は大きいと思いますが、普通の家ですよ」
「ぁ、ごめん悪い意味で言ったんじゃないよ。
ほら、うちって見たとおりじゃん? だからさ、なんてのか、うちの息子がそんな違うタイプと仲良くなって嬉しいんだよ。
あんがとね、佳澄君」
照れ臭そうに笑う美月に、少し流れが変わっていた場の空気が緩んでいく。
「佳澄、なんかあったら俺達がいくらでも話聞くから、困りごとがあったら何でも言えよ!」
赤ら顔の男性が佳澄に絡む。それを見て、横の男性が吹き出した。
「馬鹿野郎、お前に頼んだら血の気多くて余計に揉めるだろうが」
「なんだと、お前だってガキの頃バイクでやらかしてんだろうが!」
「今はそれ関係ねぇだろ!」
荒々しい言葉が飛び交う空間。
何故かとても心地よかった。
*****
「お帰り佳澄、楽しかった?」
帰って早々、緒元がにこやかに声をかけてきた。
「ただ今帰りました。うん、楽しかったよ」
「そう」
緒元は目を細め、笑みを深める。
「お菓子を買ってあるから、明日学校で山里君にお渡ししてね」
「ありがとうございます。でも学校に持ってって大丈夫かな」
「カバンに入るくらいのものにしてるから大丈夫だよ。
それより佳澄、眼鏡は?」




