十話 新しい世界
最初は渋っていたものの、観月が茶道を体験したことがないと言ったことで、急遽お茶会が行われることとなった。
「家にこんなもんあんのか……」
思わず口をついて出た言葉に、緒元がクスクスと喉を鳴らした。
観月が案内されたのは屋外。庭を右手に進んだ先にある、家に来て目についた離れ。話を聞くと茶室らしい。
「うちは自宅でお茶の教室をしているんです。だからうちにも茶室があるんですよ。
こうしてお庭の先に茶屋があるところは減っていますから、ちょっとした非日常体験はできると思います」
茶屋の前に立つと、壁と小さな木戸がある。扉らしい扉は存在しない。
緒元は木戸に手を掛けると、ゆっくりと横にスライドさせて開けていく。
「にじり口って言うんですけど、この小さい入り口から入るんです。ルールとかは気にしないで上がってください。
私が先に入りますね」
「ぉぅ、う、うっす」
テレビでしか見たことのないものに思わずしり込みしていると、「今日は無礼講ですから」と緒元が笑いかける。
なんともいえぬ緊張感を覚えながら見ていると、緒元は中を確認して小さく頭を下げ、草履を脱いで四つん這いでじりじりと奥へ入ってく。
「大丈夫そうですか? どうぞ、頭や膝をぶつけないように気を付けてくださいね」
「は、はい」
いそいそと靴を脱ぐと、観月も見様見真似で頭を下げてから大きな体を折り、中に進んでいく。
ぱっと顔を上げると、そこには彼の目にしたことのない光景が広がっていた。
四畳半程の小さな茶室には掛け軸が掛けられており、その下には桔梗が生けられた黒い一輪挿しが鎮座している。
奥に半畳程の板間、見たことのない立派な茶道具。
そして、その横には――。
「どうぞ、佳澄の前に座ってください」
言われて、観月の意識がぐんと現実に戻ってきた。
つい先ほどまで、耳を塞ぐほどの静寂を感じていたが、ふと気づけば自分は目の前に座している男――。
誉志佳澄を見て硬直していたらしい。
佳澄は濃紺の着物にくすんだ黄色の帯を巻いており、座れば床を撫でる髪は頭頂部でお団子にまとめて結われている。
いつもと違う雰囲気の佳澄、そして日常で味わうことのないどこか澄んだ空間に戸惑いながら腰を下ろすと、少し間を開けた横に緒元も腰を下ろした。
緒元が正座しているのを目にして、急いで自身も正座すると、緒元が穏やかに笑いかける。
「普段あまり正座ってしないと思うので、あぐらで大丈夫ですよ。痺れちゃいますから」
「い、いえ、大丈夫ですっ!」
小さくなりながら視線を逸らすと、観月の前に朱色の小さな皿に乗った和菓子が出される。
緑と黒の何かが透明なゼリー状のものに包まれたお菓子だ。
「おぉ」
綺麗なお菓子に思わず声を出すと、緒元と佳澄が同時に小さく笑い声をあげた。
恥ずかしさに顔を赤くすると、佳澄が「ごめん」と短く謝る。
「いや、新鮮だなって。俺達はこれが普通だけど、そういう素直なリアクションしてくれると嬉しい。
格式張ってるとさ、後で感想とか聞いてもリアルタイムで色々聞くことってあんまりないんだ」
「そんなもんなのか。まあ、この空気だと口きくのも緊張するわな」
「そ。だから今は無礼講。いろんなマナーとかは一旦置いといて、今回はお茶ってこういうものなんだって楽しんでもらえたらいいよ」
緒元からも言われていたものの、佳澄の口から聞いたことで安心したのか、観月の口から小さくため息が漏れる。
「そういうことですから、どうぞ。ご贔屓にしていただいているお店のものなので、とっても美味しいですよ」
「あ、どうも」
「女郎花というお菓子で、葛生地に普通のものと染色した餡を包んだものです」
「へー」
皿を手に取り、菓子切という木製の小型ナイフのようなものを手にすると、半分に切って口に入れてみる。
途端に、口の中いっぱいに広がったのは、つるりとした感覚と、ほろりとした解けるような舌ざわり。そして上品な甘さ。
ゼリーと違う食感と、感じたことのない餡の風味。どこか安心するような感覚が口から鼻へ。そして全身へ染みていくような感覚を覚えた。
「うっま」
思わず口に出せば、佳澄は満足そうに先ほどまで座っていた手前畳まで戻り、緒元も女郎花に口を付けた。
一気に食べるのが勿体なく感じ、半分に切った分をさらに半分にしていると、佳澄がお茶の準備をしていることに気づいた。
椀の中に茶筅などが入っており、それを帯に挟んでいた紫の帛紗で拭いていく。
その所作の一つ一つがとても丁寧でゆったりとしているのに、緩慢でじれったい印象を受けることはない。
棗から茶杓で抹茶を出す、茶釜の蓋を開く。柄杓でお湯をすくって茶器に入れ、茶筅でお茶をたてていく。
今まで目にしたことのない光景に、観月は瞬きも忘れてじっと引き込まれていた。
まもなくして、観月の前にお茶の入った茶碗が差し出される。
濃い緑にふちに泡の浮いたお茶があり。口をつけようとして、ふと思い出した動作で茶碗を右に二回回す。
流れのままにお茶を口にすると、口内に濃い抹茶の味が広がる。独特の苦みと濃さに一瞬眉をひそめたが、そこから追いかけるように、ふわりと甘さが立つ。
今まで自分の口にしてきた抹茶ラテや抹茶系のお菓子も、あくまで『風味』であったことがよく分かった。これが本物の抹茶なのか。と素人ながら感動を覚える。
ここまで考え、ふと今自分が動きを止めていることに気づき、急いで茶器を置いた。
「ご、ごちそうさまでした」
「ふふ、お粗末様でした」
顔を上げると、佳澄が緒元へお茶を差し出すところだった。
先ほどまでと違い、すっと佳澄の表情が変わる。
「どうぞ」
「お点前、頂戴いたします」
緒元は右手で茶碗をとると、左手に乗せて茶碗を回す。
動作は自身と同じものなのに、所作の美しさが雲泥の差だ。と、観月は頭の中で呟いた。
飲み終わると軽く指で拭ってから、懐紙で拭って茶碗を返す。
正式な方法ではないのかもしれないが、二人の時は茶道の礼儀や作法は守っているようだ。
茶碗を戻すと、今まで凛とした表情だった佳澄の表情が一気に軟化する。
「どうだった。初めての茶道体験」
よく知った表情と声色に息をつくと、観月はうーん、と唸って言葉を探す。
「……なんか、すごかった」
「ぷっ、なんだよそれ」
「いやわかんねぇよ! こんな感じ初めてだし!」
やいやいと笑っていると、緒元がくすりと笑ってからぽん、と手を叩く。
「こらこら、いくら無礼講でも、ここは神聖な場所ですらね。
あんまりおっきな声を出してはいけません」
「も、申し訳ありません」
「すんません」
二人揃って肩を縮めると、「良い子」と笑って緒元は佳澄に目を向ける。
「それにしても、うまくなったね、佳澄」
「……本当は?」
「お友達の前でしょう、厳しい話は……。それに、山里さんも口にされたものの批評ですし」
「いや、俺気にしないんで、コイツがいいならいいっす」
観月の言葉に緒元が改めて佳澄を見やると、彼はまっすぐに次代の家元を見据えていた。
その目に小さく息をつくと、緒元は居住まいを正す。
「まだまだですね」
一言目に出てきた言葉に、佳澄は膝の上に置いていた拳に力をこめる。
「お茶を点てすぎて、風味が少し飛んでしまっている。
しっかりと練ることは大切ですけど、加減をしっかりしなくては、分かる方の舌は満足させられないですよ」
次々と出てくる駄目出しに、観月は思わず佳澄を見やる。
佳澄は、まっすぐに緒元を見て表情一つ変えていない。
「けれど」
ぴり、と、した空気が張り詰める。
「お客様にとって良いと思う練り方や茶碗を考え、そのお茶でお客様の目を輝かせる。
その丁寧なお仕事と心遣いは、味よりもずっと大切なことです。
今の感覚を忘れず、お茶の湯の本質をしっかり心に置いてくださいね」
ああそれと、と言いながらぽん、と緒元が小さく手を叩く。
「まだまだ精進が必要ですが、ちゃんとお客様に出せるお手前になっています。自信を持ってくださいね」
その言葉を聞いた佳澄の瞳を見た時、観月は目がくらんだような錯覚を覚えた。
「ありがとう、ございます」
そう言って手を付き頭を下げた佳澄は、どこか大きく感じた。
「それにしても、ちゃんとお客様を見てお茶を点てられるようになりましたね。
相手の経験や好みを配慮してお茶をお出しすることは、相手のことを思うこと。
私はお茶の味やお作法よりも、その優しさや相手を思いやる気持ちを大事にしてほしいと思っているのです。
今回は、とっても素晴らしいお点前だったと思いますよ」
頭を上げた佳澄の顔は目がきらきらと輝き、頬が紅潮していた。
観月はその顔から目を逸らせない。
「山里さん、佳澄の初めてのお点前を飲んでいただいて、ありがとうございます」
「え?」
はっと顔上げた観月に、緒元が穏やかな顔を向ける。
「今までは私達家族に点ててもらっていたのです。お客様にお出しするには、まだまだと思っていましたから。
けれど、今日山里さんにお声をかけてよかったと、心から思いましたよ」
緒元の言葉に、観月は顔を上げられなかった。
*****
段々と日が沈み始める夕暮れ時。
蝉時雨も昼より鳴りを潜めた帰り道を、二人は自転車を引きながら歩いていた。
「なんつか。よ」
「うん」
じりじりとコンクリートの熱が体に染みて、汗が首筋を流れる。
いや、や、うーん。などと唸る観月に、佳澄は首を傾げた。
「何、ちゃんと言うのが山里家なんでしょ」
「そうだけどよ。……そうだな、うん。お前が嫌がりそうなこと言うけどいいか」
「ものによる」
その返事に二人で同時に笑うと、観月は一つ息をついた。
「お前さ、俺とダチしてていいの?」
「は?」
思ってもみない言葉に目を丸くすると、観月はまっすぐに先を見ながら話す。
「いやさ。俺とお前んち真逆だと思ってさ」
「……」
「オイエガラ? そーゆの、ねーの? 柚子ですらあんな挨拶やってんのに」
そこまで言うと、横から大きなため息が聞こえる。
前を向いたまま歩くと、自分より下の位置から声がかかる。
「俺が誰かを家に呼ばない理由って、それなんだよね」
「……」
「かずはずっとあの家見てたから今更だけど、俺があの家住んでるって知って目の色変えたり、逆に委縮したりする人がいたからさ。信頼できる人じゃないと呼べなかったんだよ」
ぱっと観月が顔を向けると、佳澄はまっすぐ前を見ていた。
「柚子もいるし、仲良くしてくれない人と遊べないでしょ。あの子元気すぎるし。
今度来たときは遊んであげてよ。柚子、今キラマクにハマってるから色々教えてくれるよ」
顔を上げた佳澄は、いつもと変わらない笑顔を向けていた。
「そりゃ、楽しみだ」
目を細めて笑う観月に、佳澄は思わず顔を逸らした。
きゅぅと、心臓のあたりが締め付けられる。
この感覚を、佳澄はまだ知らない。




