第48・5話 閑話【守りたいもの ✕ 私 ✕ 価値観の綻び】
『黒』私にとって、それは、私自身を指す言葉―――。
私が目指しているのは、そんな何色にも染まらない『無垢の黒』。
孤高の精神、それが全て。
他を寄せ付けない完成された美学だと、理解して疑わなかった。
―――彼女に出会うまでは。
生まれてこのかた、私は「自分」という個を殺して生きてきた。
『カルヴィナ王国の第二王子』
その肩書きは、私にとって誇りであると同時に、決して脱ぐことの許されない枷の鎧。
尊敬する兄上を支え、民に安寧をもたらす。
そのためならば、私情などという不確かなものは、最初から持ち合わせていないつもりだった。
だが、あの日、私の腕の中に飛び込んできた「シャロン」という異分子が、私の完璧だった世界を、あまりにも容易く塗り替えてしまったのだ。
「……ふぅ」
この場所(屋上の庭)は、幼い頃、兄上とセグナの三人で毎日、鍛錬で過ごしていた所だ。
実証実験の合間、つかの間の休息にと、久しく訪れていなかったこの場所を選んだ。
強い陽光を避けて逃げ込んだ大木の木陰で、私は深呼吸を一つした。
隣には、静かな寝息を立てるシャロンがいる。
先ほどまでの実証実験が、彼女の精神をどれほど摩耗させたかは想像に難くない。
ましてや昨夜はイリアの相手をして、ほとんど眠れていないはずだ。
私は、まだ繋いだままだった彼女の手に、知らず知らずのうちに力を込めていた。
柔らかく、私の節くれだった手とは似ても似つかない、この小さく柔らかな手。
魔力を持たず、この過酷な世界で最も脆いはずのこの手が、私の心をどうすればここまで強く締め付けるのだろうか?
(……いかなる時も『黒』として生きるはずの決意が鈍っている私を見て、父上やセグナ……そしてそれを教えてくれた兄上はどう思うだろうな)
情けないほどに、胸が熱い。
国の安寧を守ること。
兄上の行方を突き止めること。
それが私のやるべきことのすべてだった。
そのはずなのに……
けれど今、私の優先順位の最上位には、間違いなくこの「隣で眠る少女の平穏」が居座っている。
これを「変化」と呼ばずして、何と呼べばいい。
―――その時だった。
彼女の長い睫毛が微かに震え、色を失った薄い唇が、夢にうなされるように動いた。
「……ありが、とう……ノエル」
消え入りそうな、けれど私の鼓膜を確かに震わせる囁き。
「……そばに、いてくれて…………」
―――ドクン、と。
私の心臓が、これまで経験したことのないほど激しい拍動を打った。
一瞬、それまでの思考が真っ白に染まった。
彼女が私を「ノエル」と呼んだ。
それも、無意識の底から溢れ出たような、混じりけのない感謝と共に。
「殿下」という壁が崩れ、剥き出しの私が、彼女の『真心』に直接触れられたような錯覚。
喉が、渇く―――ひどく渇く。
完璧な王子として、私は今すぐにこの場を離れ、彼女を休ませるべきだ。
だが、一人の男としての私が、それを激しく拒絶する。
離したくない。
……このまま、側にいたい。
この声を、この温度を、この無防備な信頼を、今は自分だけのものにしておきたい。
兄上ですら、父上ですら、ましてや他の誰にも触れさせたくない。
そんな、心の底に沈めていたはずの、王子としては失格極まる醜悪な独占欲が、胸の奥で毒蛇のようにドロリと鎌首をもたげた。
「……ずるいな、お前は」
頭を抱え、私は掠れた声で、誰にも聞こえない独白を漏らした。
彼女の頬を、指の背でそっとなぞる。
触れた先から火傷をしそうなほどの熱が伝わり、呼吸を早める。
いや、熱いのは私の指先なのか。
彼女がその唇からこぼす『真心』は、あまりに清らかで、あまりに鋭い。
嘘という名の盾を持たない彼女の言葉が、私の抱くどす黒い情念を、望みもしない光で焼き払っていく。
これは救いという名の処刑だ。
彼女の無垢な言葉に貫かれるたび、私の孤高は容易く崩れ、自分がどれほど汚れた存在かを思い知らされる。
その澄み切った加護が、私にとってどれほど甘美で致命的な毒であるかを―――。
彼女の「真心」の加護。
嘘を吐けないというその力こそが、私という人間にどれほどの残酷な慈悲を与えているのか、彼女は気づいてもいないだろう。
もし、
もしも彼女が、最初から「シャロン」として私の前に現れていたら。
もしも彼女が、この世界の理に囚われない自由な魂ではなかったら。
私は、これほどまでに己を失わずに済んだのだろうか。
「失いたくない……私の、負けだ」
私は諦めたように目を閉じ、彼女の頭をそっと自分の肩に引き寄せた。
守りたいものが、増えてしまった。
この国を。
愛する家族を。
そして―――この寝言で私の名を呼ぶ、愚かで愛おしい私の聖女を。
たとえこの先に何が待ち受けていようと。
例え彼女の「真心」が、いつか私を拒絶する未来を弾き出そうとも。
私から、彼女の手を離すことはないだろう。
木漏れ日が、静かに二人の影を揺らしている。
眠る彼女の耳元で、私は二度と届かないはずの、けれど偽りのない本音を、祈りのように囁いた。
「……黒に染まった闇に、君は喜びという甘い光で私を照らしてくれた。ありがとう……シャロン」
その瞬間、彼女の背中の『刻印』が、微かに、けれど力強く拍動したような気がした。
まるで、二人の本源が共鳴し、まだ見ぬ真実への扉を叩いたかのように―――。




