第二十七話 字を読む理由
ノアは、
字が読めなかった。
いや。
正確には、
読む必要がなかった。
生きるのに必要なのは、
逃げる速さ。
隠れる場所。
殴られる前に察する勘。
それだけだった。
◇
「違う」
低い声。
灰燕倉庫二階。
灰燕運送ギルド
の事務室で、
ノアは机へ突っ伏していた。
「なんでこんなの覚えんだよ……」
机上には紙。
数字。
商品名。
配送記録。
ノア
は完全に顔が死んでいた。
◇
「これは?」
レイン・ヴァルト
が帳簿を指す。
「……小麦」
「数は」
「三十……二?」
「違う。
二十三」
「うげぇ……」
ノアが頭を抱える。
その様子を見て、
ラッカが吹き出した。
ラッカ
は荷箱を抱えながら笑う。
「ノア、
戦場より辛そう」
「戦場知らねぇよ!!」
「帳簿戦争だねぇ」
他の作業員達も笑っていた。
◇
だが。
レインだけは真面目だった。
「覚えろ」
「なんでだよ……」
ノアは不満そうに言う。
「荷運びならできる」
「掃除もやってる」
「字なんかいらねぇだろ」
その瞬間。
レインの手が、
一枚の紙を机へ置いた。
配送票だった。
「これ読めないと、
薬品と毒草間違える」
ノアが黙る。
「地図読めないと、
吹雪で死ぬ」
さらに別の紙。
「契約書読めないと、
騙される」
静かな声だった。
「知識は生存だ」
◇
ノアは、
少しだけ目を見開いた。
生存。
その言葉だけは、
理解できる。
毎日考えていたことだから。
◇
「……レインは、
なんでそんな色々知ってんだ」
ぽつりと聞く。
レインは帳簿を書きながら答えた。
「必要だったから」
「勇者って、
字の勉強とかすんの?」
「勇者じゃない」
即答。
「雑用係だ」
ノアは首を傾げる。
未だに、
この男がよく分からない。
強いわけでもない。
派手な魔法もない。
でも。
みんな、
この人の言うことを聞く。
◇
数日後。
ノアは倉庫整理をしていた。
「北行き薬品箱っと……」
手が止まる。
箱の印字を見る。
読めた。
一瞬。
ノアは固まる。
「……読めた」
小さく呟く。
その時。
「そっちは第三便だ」
後ろからレインが言った。
ノアが振り返る。
「なんで分かった?」
「票の右下」
見る。
確かに書いてある。
今まで、
意味不明だった記号。
でも今は、
少し読める。
◇
夕方。
ノアは地図板の前にいた。
街道線。
中継地。
距離。
少しずつ、
分かるようになってきた。
「これ、
全部繋がってんのか……」
感嘆みたいな声。
今まで世界は、
路地裏しかなかった。
食える場所。
逃げる場所。
殴られない場所。
それだけ。
でも地図には、
もっと先がある。
街。
村。
街道。
知らない場所。
◇
「見えるか」
レインが隣へ立つ。
ノアは地図を見たまま、
小さく頷いた。
「……遠いな」
「遠い」
「こんなに世界あんのか」
「ある」
短い会話。
だが。
ノアの胸は、
少しだけ熱くなっていた。
◇
夜。
簡易寝台。
ノアは、
紙切れを握っていた。
今日覚えた文字。
北。
東。
塩。
薬。
下手くそな字。
でも。
それは初めて、
自分で掴んだものだった。
そして。
ぼんやり考える。
もし。
もっと読めたら。
もっと覚えたら。
自分は、
路地裏以外でも生きられるんじゃないか。
そんなことを思った。
初めてだった。
“明日”より先を考えたのは。




