第百十一話 小さな市場
市場の匂いがしていた。
焼きたてのパン。
乾燥果実。
香草。
油。
◇
数年前なら、
考えられない光景だった。
◇
ローデン駅前広場。
かつては、
避難民用配給区画だった場所。
◇
今は。
木造屋台が並んでいる。
◇
「焼きたてだよ!」
「南部産小麦!」
◇
パン屋の女が、
声を張り上げる。
◇
店先には、
丸い小麦パン。
まだ小さい。
形も不揃い。
◇
でも。
“配給食”じゃない。
◇
誰かが作って。
誰かが選んで買う。
それはもう、
市場だった。
◇
隣では、
古着屋が布を広げている。
◇
「穴補修済み!」
「冬越え毛布付き!」
◇
昔の軍服を、
縫い直した上着。
継ぎ接ぎだらけの外套。
◇
新品なんて、
まだ少ない。
だが。
“選べる”ようになっていた。
◇
農具交換所では、
農民達が言い争っている。
◇
「この鍬、
刃が歪んでる!」
「その代わり柄を新調した!」
◇
笑い声が起きる。
◇
取引。
交渉。
文句。
◇
生き延びるだけだった世界に。
少しずつ、
日常が戻っていた。
◇
広場の端。
小さな菓子屋台。
◇
砂糖はまだ貴重だ。
だから、
蜜焼き菓子は小さい。
本当に小さい。
◇
それでも。
子供達は目を輝かせていた。
◇
「一個だけ!」
「半分こする!」
◇
笑いながら、
焼き菓子を分け合う。
◇
その光景を。
レイン・ヴァルト
は、
市場入口から見ていた。
◇
隣には、
ノア
がいる。
◇
「人、
増えたね」
◇
「あぁ」
◇
昔は違った。
市場にあったのは、
配給列だけ。
奪い合い。
空腹。
絶望。
◇
誰も、
“欲しい物”を探していなかった。
必要最低限しか、
考えられなかった。
◇
だが今。
人々は立ち止まっている。
品物を見比べている。
悩んでいる。
◇
それは。
ほんの少しだけ、
余裕が戻った証だった。
◇
ノアが、
小さく呟く。
◇
「豊かになったのかな」
◇
レインは、
しばらく市場を見る。
◇
パン屋。
古着屋。
農具。
菓子。
雑談。
笑い声。
◇
そして。
静かに首を横へ振った。
◇
「……まだ違う」
◇
「豊かじゃない」
◇
世界はまだ壊れている。
飢餓地域もある。
汚染地帯も残っている。
復興途中だ。
◇
でも。
◇
「余裕が戻り始めてる」
◇
必要最低限だけじゃなく。
誰かへ土産を買う。
甘い物を欲しがる。
服を選ぶ。
◇
そんな“無駄”が。
少しずつ戻ってきていた。
◇
それはきっと。
人がまた、
生き始めたということだった。
◇
遠くで汽笛が鳴る。
市場の人々が顔を上げる。
◇
新しい列車が、
駅へ入ってきた。
◇
また、
荷物と人を運んできたのだ。
◇
レインは、
その光景を見ながら。
少しだけ、
笑った。




