第百三話 小さな春
最初に見つかった時。
誰も信じなかった。
◇
「……芽が出てる」
◇
その声に。
畑中の人間が、
足を止めた。
◇
ドラクエラ南部試験農地。
灰雪の薄く積もる土の中。
そこに。
小さな緑があった。
◇
麦芽。
◇
黒く腐敗していない。
変異もしていない。
◇
普通の。
本当に普通の小麦だった。
◇
一人の老農夫が、
震える手で土へ触れる。
◇
「生きてる……」
◇
掠れた声。
◇
周囲は、
しばらく静まり返っていた。
◇
たった数本。
それだけだ。
◇
だが。
それは。
世界がまだ完全には死んでいない証拠だった。
◇
レイン・ヴァルト
は、
畑の端からその光景を見ていた。
◇
浄化土壌。
改良種子。
温室布。
地下水循環。
◇
灰燕と農業班が、
何ヶ月も積み重ねた試行錯誤。
◇
失敗の方が多かった。
腐敗。
突然変異。
全滅。
◇
それでも。
止めなかった。
◇
そして今。
ようやく、
小さな成果が生まれた。
◇
数週間後。
初の部分収穫が行われる。
◇
量は少ない。
都市全体を支えるには、
到底足りない。
◇
それでも。
市場へ並べられた瞬間。
人々の空気が変わった。
◇
「本物の麦だ……」
「今年採れたやつか?」
◇
久しぶりに。
市場で笑顔が生まれる。
◇
値段交渉。
焼き立ての匂い。
子供達の声。
◇
失われていた“日常”が、
少しだけ戻っていた。
◇
ノア
は、
孤児達と一緒にパン屋前へ並んでいた。
◇
「押すなって!」
「ちゃんと全員分ある!」
◇
焼き上がった小麦パン。
まだ小さい。
硬い。
色も悪い。
◇
でも。
子供達は、
宝物みたいに抱えていた。
◇
一人の少女が、
パンを齧った瞬間。
目を丸くする。
◇
「……あったかい」
◇
その言葉に。
周囲の大人達が、
少しだけ笑った。
◇
夜。
市場通りを、
レインが歩く。
◇
露店の灯り。
小さな商売。
湯気。
人の声。
◇
まだ貧しい。
壊れた場所も多い。
灰雪も止まらない。
◇
それでも。
世界は、
ほんの少し前へ進んでいた。
◇
その時。
後ろから、
小さな声が聞こえた。
◇
「ねぇ」
「来年は、
もっと作れるかな」
◇
振り返ると。
パンを抱えた子供達が、
空を見上げていた。
◇
レインは、
少しだけ考える。
◇
未来は不安定だ。
世界はまだ壊れている。
保証なんて、
どこにもない。
◇
それでも。
彼は静かに答えた。
◇
「作れるようにする」
◇
春は、
まだ遠い。
◇
けれど。
文明はこうやって戻るのだ。
少しずつ。
本当に少しずつ。




