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臆病な僕と、リングの約束 ーAパート 放課後サイドー  作者: 叶畑シュウ
第二章

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第五十三話 ふたりの土曜日①

 アレセンは、物心ついたときからずっと、大きかった。

 母親は東南アジアの、とある国で働いていたと父から聞かされている。

 父は紡績会社の技術職で、一時期その国に出向していた。そこで出会い、産まれてきたのがアレセン——けれど、日本に戻るとき、連れて来られたのは子どもの自分だけだった。

 理由は、今も聞かされていない。尋ねても、父は曖昧な笑みを浮かべるだけだ。


 保育園でも、小学校でも、中学校でも、アレセンはいつも「一番でかい子」だった。肌の色も輪郭も、どこか周りと違う。笑うとからかわれ、ただ廊下を歩いただけで下級生に泣かれたこともある。


 何もしていないのに、「怖い」と言われる。その理不尽さには慣れた。慣れたふりをするのも、随分とうまくなった。


 中学では、金がかからないという理由で卓球部を選んだ。ラケット一本あれば事足りるし、遠征も少なかった。親に負担をかけたくなかったのと、自分でもそれが合理的だと思った。悪くはなかった。でも、どこかで物足りなかった。

 体格だけはどんどん強そうになっていくのに、自分が本当に強いのかどうかは、ずっと曖昧なままだった。


 だから、高校に上がるとき、「ボクシング部がある」と聞いてその学校を選んだ。殴り合いの競技なら、大きいことも有利になるかもしれない。そう思ったからだ。


 ——そして、入学初日、放課後の体育館の奥で現実を見ることになる。


 体育館の隅。白いロープで囲われたリングが一つ。サンドバッグが三本、天井からぶらさがっている。グローブやヘッドギアは棚にきれいに並んでいるのに、人がいない。


「……これ、使っていいんですか」


 顧問に尋ねると、困ったように笑った。


「設備はあってな。昔は強かったんだわ、この高校。でも今は部員ゼロ。廃部までは、数年様子見ってところだ」


 様子見。言葉が妙に軽く聞こえた。


「俺、ボクシング部があるって聞いて来たんですけど」

「あるよ。あるだけ、だけどな」


 顧問はロープを指で弾いた。乾いた音が体育館に響く。


「土曜だけ外部からコーチが来る。それまでは勝手に走ったり、サンドバッグ叩いたり、縄跳びでも跳んどけ」

「……それ、部活ですか」

「部活だよ。たぶんな」


 たぶん。まただ、と思う。どこへ行っても、自分の居場所は曖昧な輪郭しか持たない。中学の卓球部も、どこかそんな空気だった。

 でも、今度は——強くなりたくて来たのに。


 体育館を出ようとしたとき、廊下ですれ違った一年が、ちらっとこちらを見てすぐ目を逸らした。ああ、またか、と思う。でかいから、目つきが鋭いから。その全部が、誰かの怖さになる。


 それから数日、アレセンは言われた通りに過ごした。放課後、誰もいないリングの横で一人で縄跳びを跳び、サンドバッグを叩き、走る。やることは分かりやすい。止まる理由も特にない。ただ、どれだけやっても部活をしている感じは薄かった。


 ——そして、最初の土曜日が来る。


 土曜の午前、体育館はバスケ部やバレー部で賑わっていた。端っこのリングだけが、ぽっかりと空いている。アレセンは一人で縄跳びをしていた。三分、六分。足音とロープの風を切る音だけが続く。


「……思ってたのと違うな」


 小さくこぼしたとき、体育館の扉が開いた。

 パーカー姿にスポーツバッグを持った男が入ってくる。二十代後半くらいだろうか。ふわっとした柔らかいパーマヘア。目尻が少し下がった、優しそうな顔と穏やかな空気を纏った男。


「ええと……君が、新入生ですね」


 男が近づいてきて、にこっと笑う。


「……はい」

「月代陸です。土曜日だけ、外部コーチとして来ています。普段は公務員やってます」


 アレセンは縄跳びを止めないまま、顎を引いた。


「ボクシング部、なんで入ったんですか?」


 唐突な質問だった。けれど、適当には答えたくなかった。


「強くなりたくて」

 

 一拍置いて付け足す。

 

「……あと、金かからなさそうじゃないですか」


 陸さんは少しだけ目を細めて、それからふっと笑った。


「現実的ですね。なにかスポーツはやってました?」

「卓球っす」

「いいじゃないですか。リズムもありますし、反応も速くなる。ボクシングに生かせますよ」

「……そうなんすか」

「はい。今までやってきたことも、無駄にはならないと思います」


 良い返し方をする大人だな、とアレセンは思う。リングを見上げながら、ぽつりと口からこぼれた。


「……ひとりで、できるもんですかね。これ」


 陸さんはすぐには答えなかった。少しだけ間を置いてから、静かに言う。


「一人でできる部分は、あります」

「……あります?」

「縄跳びも、シャドーも、走り込みも。一人で積めます」


 そこで一度、言葉を切る。


「でも、一人で全部はやらないほうがいいです」


 アレセンは、眉を寄せた。


「……なんでですか」

「相手がいないと分からない距離がありますし、危ないです。変な癖がついたら、戻すのに時間がかかるから」


 それは分かる。分かるけれど——。


「じゃあ、俺、結局ひとりで……」

「土曜、一緒に積みましょう」


 あっさりと。まるで、これから先の未来を約束するかのように言い切られた。


「土曜だけでも積み上げられます。その代わり、平日は安全に、一人でできることだけをやってくださいね」


 全部は抱え込むな、という言い方だった。陸さんは、アレセンの足元を一度見てから言った。


「今日は、まずワンツーと足から覚えましょう」

「足」

「はい。フットワークです。怪我しないで、ちゃんと家に帰る強さから」

「……そんなの、強さっすか」

「僕は、そうだと思いますよ」


 その日、リングの中で教えてくれたのは、ワンツーと前後左右のステップだけだった。

 終わり際、陸さんは穏やかな調子で言った。


「じゃあ、今日のまとめを」

「大したことしてないっすよ」

「初日ですから。今日は立ち止まらずに動いた日でしたね」


 意味がよく分からないまま、「はい」と返した。でも、その言葉はなぜか、帰り道まで胸の奥に残った。

 曖昧で透明な膜のなかで、立ち尽くしていた自分。そんな自分の時を動かしてくれたのは、この優しくて少し風変わりなコーチだった。

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