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臆病な僕と、リングの約束 ーAパート 放課後サイドー  作者: 叶畑シュウ
第二章

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第五十四話 ふたりの土曜日②

 二回、三回と土曜日を重ねるうちに、アレセンは外部コーチである陸さんの存在に、少しずつ慣れていった。

 フォームを直され、ワンツーにフックを足され、ガードの位置を修正される。

 そして、ある土曜日。サンドバッグを叩く動きが、目に見えて鋭くなった頃。


「だいぶ音、変わりましたね」


 リングサイドで腕を組んでいた陸さんが、ふわりと微笑む。


「……っす」

 

 手を休めないまま、アレセンは返事をする。褒められることに慣れてなくて、わざと不愛想に振る舞ってしまう。


「せっかくだから、今日は軽くスパーもしてみましょうか」

 

 陸さんはグローブを手に取りながら、さらっと言う。アレセンは一瞬だけ固まって、それから視線を泳がせた。リングの周りは誰もいない。遠くで顧問が退屈そうに書類をいじっているだけだ。


「……相手、いないっすよね」


 言った瞬間、ちょっとだけ喉が熱くなる。自分でも分かってる。部員がいないんだから、相手なんているわけがない。

 陸さんは「そうですね」と言いかけて、途中で止まった。

 何か考えるみたいに、ほんの一拍。それから、妙に控えめに——


「……えっと、僕が、やります」


 小さい声で言いながら、陸さんは片手をおずおずと上げた。授業中に指されたくないのに、仕方なく挙手をする生徒のような、遠慮がちな挙げ方。


(……なに、それ)


 アレセンは思わず目を瞬いた。


「陸さんが?」

「はい」


 陸さんはちょっとだけ頬を掻いて、照れくさそうに笑う。


「僕、一応ここの部のOBで……君と階級も近いですし」


 声は、やっぱり控えめで——なのに、リングのロープを跨ぐ動きだけが、やけに迷いがない。


「怖かったら、すぐ止めましょう」

「……怖くないっす」


 陸さんはヘッドギアを持ち上げた。


「じゃあ、僕が怖くなったら止めますね」


 その言い方が、冗談みたいで、でも本気みたいで。アレセンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


(相手、いた)


 思いがけない場所に。グローブをつけ終えた陸さんが、アレセンの正面に立ち、さっきより少しだけしっかりとグローブを差し出す。


「……じゃあ、よろしくお願いします」


 その「よろしく」が、妙に丁寧で、妙にかわいくて——アレセンは、言い返す代わりに、グローブを軽く合わせた。


 ポスッ。

 小さい音が、リングの中に落ちた。


 リングの中は、急に狭く感じた。ロープの外にいたときはただの「設備」だったのに、足を踏み入れた瞬間、二人だけの逃げ場がない場所になる。

 陸さんはいつもの柔らかい声で言う。


「じゃあ、最初はジャブだけでいきましょうか」

「……はい」


 アレセンは頷いたけど、胸の奥は落ち着かない。相手がいて、自分を見てくれている人がいる。それが嬉しいのに、怖い。

 陸さんが片手を差し出す。


「アレセン君、顎、もう少し引いて」

「……こうっすか」

「そうそう。……いいですね」


 たったそれだけの指示と肯定で、呼吸が落ち着く気がした。この人はリングの中でもコーチなんだ、と分かる。

 でも、次の瞬間。


「じゃ、行きますよ」


 陸さんのジャブが、ふわっと飛んできた。

 パスッ。

 痛くない。なのに、アレセンの背中がぞくっとする。


(当ててくるんだ)


 優しい顔のまま、手加減はしつつも、ちゃんと当ててくる。ただ、教えるだけじゃない。殴り合う相手として、ここに立っている。

 アレセンもジャブを返す。最初は触るだけ。でも、二、三度の拳の往復で、互いの距離が噛み合っていく。


(……ここか)


 踏み込みが自然に一歩深くなる。空気を裂く音が、少しだけ鋭さを増した。


 ドッ。


 アレセンの左が、陸さんの額を捉えた。ヘッドギア越しでも分かる、重い感触。


「……っ」


 (やべ、入った)息を飲みそうになる。謝ろうと口を開きかけた瞬間、陸さんが笑った。


「ナイスです。アレセン君」


 怯えも怒りもない、穏やかな声。でも、そこで終わらない。陸さんのガードが、きゅっと上がる。


「今のは良かったです。ただ、今みたいに『入った』って顔をして隙を見せると——」


 そのまま、軽い打ち返しが返ってきた。

 パシッ。

 アレセンの額に、ジャブが的確に触れる。痛くないのに、恥ずかしい。自分の心の動きを見透かされている。


「もらいますよ」


 陸さんは淡々と優しい口調のまま、厳しいことを言う。それが、アレセンには妙に心地好かった。


(この人……俺から、逃げないんだ)


 強く当てても、怒鳴らない。怖がって距離を取ることもない。かといって、甘やかすわけでもない。


「……陸さん」

「どうしました?」


 返事だけは、いつもみたいに柔らかい。


「俺、強くなれますか」

 

 自分でも唐突だと思った。スパーリングの途中で聞く質問じゃない。陸さんは一拍だけ黙って、足を止めずに答えた。


「うん、なれますよ」


 即答だった。


「ただし、焦らなくていいですよ。君はもう、強くなり始めていますから」


 陸さんの声が、少しだけ低くなる。


「力を出すことだけが強さじゃない。止めることも、相手を見て加減することも覚えていきましょう」


 その言葉の直後、またジャブが飛んでくる。そして、もう一発。

 殴られているのに、教えられている。教えられているのに、ちゃんと殴り合っている。

 アレセンは、思わず笑いそうになった。こんな関係、初めてだった。

 2分の終わり、熱くなりかけたところで、陸さんが「ここまでにしましょう」と静かに止めた。


「今日、一番『やばい』って思った瞬間、どこでした?」


 問いかけられて、喉元まで出かかったのは一つしかなかった。


「……さっきの、俺のジャブです」

「やっぱり」


 陸さんはうれしそうに笑った。


「強く当たって、『やばい』って思った。それをちゃんと覚えていて、今、自分で言葉にできたの、すごく良いです」


 そんなふうに言ってくれる大人は、今までいなかった。

 でかいから気をつけろ。本気を出すな。自重しろ。そう言われることはあっても、「本気で来た」と認めた上で、「それでも受け止めて、返してくる」大人。

 リングを降りるとき、アレセンは心の中でつぶやいた。


(ちゃんと向き合ってくる大人、いたんだな)

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