第五十二話 ライの県予選④
夕暮れの空気が、予選会場となった体育館をゆっくりと冷ましていく。
ドクターチェックを終え、控室の荷物を片づけたライたちは、エントランスへ向かっていた。
先に気付いたのはユキだった。
自動販売機の横のベンチに座っている人影。ぼんやりとした目で、横向きに持ったスマートフォンをタップしているのは、先ほど一方的な試合を繰り広げた――天束ナオだった。
スポーツバッグを足元に置き、ゲームに没頭しているように見える。けれど、ときおり指を止めては、廊下の奥へ目をやっていた。
やがて、重い足取りでライたちが姿を現すと、ナオの視線がスマートフォンから外れ、ぱっと表情が明るくなった。
「あ、ライ君!」
ナオはスマートフォンを無造作にスポーツバッグへ突っ込むと、嬉しそうに駆け寄った。
「大丈夫だった? けっこう痛そうだったから、心配してたんだよ」
さっきまでリングで殴り合っていた相手とは思えない声。ライは少し笑って、静かに頷く。
「はい。ドクターチェックも終わって、異常ありません。……今日は、ありがとうございました」
「そっか、よかったぁ」
ナオはようやく緊張が解けたように、自分の胸を撫で下ろした。レンが少し離れたところで眉をひそめる。
(なんだ、こいつ)
試合中と完全に人が変わっている。そんなことを考えていると、ナオの視線がふいに横へ流れた。ライの隣に立つユキをじっと見る。
ユキの目元はうっすらと赤く、かすかに濡れていた。ライの痛々しい姿を見たとき、堪えきれなかった涙の痕。
ナオはふらりとユキの目の前まで距離を詰めた。少し身を屈め、下からユキの顔を覗き込む。
「あれ。君、泣いたの?」
「え……あ、いや……」
「目、赤い。もしかして、悲しくて泣いちゃった?」
ユキが戸惑い、視線を彷徨わせる。ナオはそんなユキを見ながら、ふむ、と小さく頷いた。
「秋の新人戦は、君も出るの?」
「あ、うん……たぶん」
ユキが自信なさそうな細い声で答えた、次の瞬間だった。すっ、と伸びたナオの白い指先が、ユキの顎を捕らえた。ナオはそのままユキの顔をぐいと自分のほうへ上向かせ、赤い目元を至近距離で見つめる。
「そっか。……君、かわいそかわいいねぇ」
「なっ――」
「人の痛みに泣いちゃうくらい優しくて。痛いの苦手そうだし。でも、たぶん頑張るでしょ」
ユキが息を呑み、硬直する。体温の低い、けれどどこか甘いささやき。ナオの瞳の奥が、ほんの一瞬だけきらりと光る。
「……ちょっと」
低い声が割り込んだ。レンの手がナオの手首を乱暴に掴み、払いのける。
「気安く触らないでもらっていいですか。……アンタ、ユキ先輩になんの用っすか」
完全に警戒している顔だった。
「痛いな……」
弾かれた手首をさすりながら、ナオは首を傾げる。
「ライ君の後輩、だっけ? 君、噛みつきそうだね」
「は? 誰のせいですか」
レンがナオの胸ぐらを掴もうと踏み出した瞬間、横からライの腕がその胸を押し留めた。
「やめろ、レン。揉め事を起こすな」
ライの声は優等生らしい冷静さを保っていたが、レンを制する腕は強張っていた。
「ごめんね。怒らせちゃったみたい」
ナオはふわっと笑い、スポーツバッグからスマートフォンを取り出しながら踵を返した。
「じゃあね。新人戦、楽しみにしてるよ。……泣き虫の君も、ね」
ナオは振り返ることなく、夕闇の中へと消えていく。あとに残されたのは、ユキを背後にかばうレンと、固く拳を握りしめるライだった。
そのとき、ユキのスポーツバッグの中で、スマートフォンが短く震えた。取り出した画面に表示されていたのは、部長のアレセンの名前だった。
『終わった。陸さんと一緒』
勝ったとも、負けたとも書かれていない。けれど、陸さんが一緒だと分かって、ユキは少しだけ安堵した。
『こちらも終わりました』
そう返してから、何を書き足せばいいのか分からず、指を止める。怪我はないですか、と尋ねるべきなのだろうか。
目の前には、腫れた頬のライがいる。少し離れた場所で、アレセンが今どんな顔をしているのか、ユキには想像もつかなかった。




