第五十話 ライの県予選②
試合会場の熱気が、壁の向こうから流れ込んでくる。
パイプ椅子に腰掛けるライの頬に、ユキの白く細い手がそっと氷嚢を当てている。頬は腫れているし、唇も切れている。その横では、レンが腕を組んだまま不満そうな顔をしている。
今日は土曜日。週末だけ帯同するコーチの陸さんが、スマートフォンで時間を気にしながら、ライの前に静かにしゃがみ込む。
別のリングで行われているアレセンの試合が長引いているらしく、二人の教え子の間を行ったり来たりしている状態だった。
「部長、まだ終わんないんすか」
レンが壁に寄りかかったまま、ぼやいた。
「ええ。アレセン君の相手、少し厄介なタイプみたいで。……ここが終わったら、向かわないといけません」
陸さんは少しだけ申し訳なさそうに微笑んでから、再びライの顔に視線を戻した。その穏やかな瞳がライの傷跡をなぞり、重いため息をひとつ落とした。
「……被弾が増えてますね」
「すみません」
ライが、ユキを安心させるためのいつもの笑みを作ろうとして、痛みに顔をしかめる。
「謝らないでください。痛いのは君なんだから」
そう言いながらも、表情は晴れない。脇腹、頬、唇。どれも試合を重ねるごとに傷が増えている。
陸さんは一度目を閉じ、やがて来る決勝の相手の顔を脳裏に浮かべながら、静かに尋ねた。
「……ライ君、いけますか。決勝」
ライは少しだけ笑った。
「ここまで来て、何言ってるんですか。いけます。もちろんです」
迷いのない返事だった。陸さんは困ったように眉を寄せる。この子は、「無理です」と言わない。
沈黙が控室を満たしていた時だった。
ノックもなしに、扉からひょい、とひとつの影が覗いた。
「やっぱりここだった。あいかわらずぼろぼろだね、ライ君」
軽い声に全員が振り向く。どこか焦点の合わない、眠そうな目つきをした青年。その男の登場に、ライの表情がすっと険しくなる。
「……久しぶり、ナオ君」
ナオと呼ばれた青年は部屋の中を一瞥し、パイプ椅子に座るライと、その傍らで氷嚢を持つユキの姿に視線を止めた。
ひんやりとした瞳が、ユキを頭の先からつま先まで値踏みするように舐める。
「……その子、マネージャー?」
悪気すらない、ただの純粋な疑問。だが、その言葉が落ちるより早く、影が動いた。
「誰だよ、アンタ?」
レンだった。先ほどまで壁に寄りかかって拗ねていたはずのレンが、ナオとユキの間に割って入った。
ユキの姿を完全に背後に隠し、ナオを睨みつける。
「ユキ先輩はマネージャーじゃねぇ。選手だよ」
低く唸るような、恫喝。外の人間がユキを無遠慮な目で見た瞬間、レンの中のケモノが完全に牙を剥いていた。
しかしナオは、レンの威嚇を受けても瞬きひとつしなかった。ただ、背中越しに見え隠れするユキの気配を探るように、小首を傾げる。
「へぇ……。なんか、圧倒的に非戦闘要員って顔してるけ――」
「ナオ君、その辺で。ユキが困ってるから」
ライがかばうように割り込む。その時だった。
「……ナオ……いえ、天束君」
今まで黙っていた陸さんが立ち上がる。ナオはようやくそちらへ視線を向けた。
「あ、陸さん」
陸さんは思わず苦笑した。
「君、次が決勝でしょう。試合前に、これから戦う相手の控室へ来る選手がどこにいますか。ダメでしょう」
ナオは少しだけ考えて、「えー、だってライ君心配だったし」とうそぶく。
陸さんは額へ手を当てた。
「そういう問題じゃない……」
するとナオが、ぼんやりした目のまま陸さんを見る。
「陸さん、また教え子のこと、甘やかしてるんでしょ」
「甘やかしてません」
「してる」
「してませんよ」
ライがたまらず、小さく噴き出した。
「二人とも、小学生みたいですよ」
ナオは不満げに口を尖らせ、再びライへ視線を戻した。頬の腫れ、切れた唇、疲労の残る肩。全部を順番に眺める。
最後に、二人の間に守られるように佇んでいるユキをもう一度だけぼんやりと見つめ、興味を失ったように小さく息を吐いた。
「ん。……まあ、いいや。次、よろしくね」
くるりと背を向け、ナオは扉の向こうの喧騒へと歩き出す。そして最後に、振り返りもせずに、事実みたいに告げる。
「あまり長引かないように、俺がすぐ終わらせてあげる」
控室が静かになる。レンの眉がぴくりと動いた。ユキも息を呑む。バタン、と扉が閉まった。
「……感じわりぃ野郎だな。ぶっ飛ばしてきていいすか」
レンが、舌打ちをする。
「県一位の天束ナオ。お前の敵う相手じゃないよ。……次の俺の相手」
ライが、ユキの肩からそっと手を離し、静かに言った。ライだけは、あの温度の低い声の奥にあるものを知っている。
次の試合は、たぶん一番痛い試合になる。




