第四十九話 ライの県予選①
県予選の会場は、朝から熱気に包まれていた。
体育館に設置されたリング。その周囲を各校の選手や顧問たちが取り囲み、マイクのアナウンスとグローブの打ち合う音が絶え間なく響いている。
ライは、勝っていた。一回戦も、二回戦も、判定は文句なし。けれど。
「……なんで、倒さないんだよ」
観客席からリングを見ながら、レンは忌々しげに舌打ちをした。相手は明らかに苦しんでいる。足も止まり、ガードも下がりかけている。ライのステップと正確なジャブで、完全に距離を支配されているからだ。
ライがあと一歩踏み込んで右を放てば、いつでも試合は終わる。
なのに、ライは追わない。ポイントを取り、距離を保ち、ただ勝つことだけを選ぶ。倒しにいかない。
(……俺とスパーする時は、容赦なく、ぶっ倒すつもりで殴ってくるくせに)
レンの胸の奥で、苛立ちがチリチリと音を立てた。
◇◇◇
試合後の控室。ライはパイプ椅子に座ったまま、大きく息を吐いた。
ユキが慣れた手つきで氷嚢を頬へ当てる。
「痛くない?」
「平気、ありがと」
ライはいつものように笑った。でも、頬の腫れは一回戦の時より大きい。唇も少し切れている。レンは壁にもたれたまま、その様子を見ていた。
勝っているのに傷は増えていく。
◇◇◇
次の日。準決勝。ライはまた勝った。けれど、試合が長引き、被弾は昨日よりも増えていた。
試合後の薄暗い控室。椅子に深く腰掛けたライの血のにじむ口元を、ユキが無言で手当てしている。いつもは優しいその指先が、今日は少しだけ強い力で消毒液を押し当てた。
怒っているわけじゃない。泣くのを堪えているのだと、ライには痛いほど分かった。
「……ごめん」
「なんで、謝るの」
「ユキに、心配かけてるから」
ライは少しだけうつむく。ユキの前では、いつだって無傷でスマートな優等生でいたかった。
レンはその光景を見ながら、とうとう口を開いた。
「なんで、倒さないんすか」
控室の空気が張り詰める。ライが少し驚いたように顔を上げた。
「倒せるでしょ。なんで行かないんすか」
レンは壁から背中を離し、ライを見下ろすように一歩近づいた。ライは、レンのその尖った視線を受け止め、やがて困ったように息を吐いた。
「……うーん。なんでだろな」
本当に、どう説明したものか悩んでいる顔だった。
「だって……相手も頑張ってるのが伝わってくるからさ。どうしても最後の一発が打てないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、レンの中で何かがプツンと切れた。
「は? 意味わかんないっす」
レンの声は、自分でも驚くほど低く、そして熱を帯びていた。
「俺とのスパーの時は、ボコボコにしてくるくせに。……知らない奴には優しいとか、マジで意味わかんないでしょ」
勝負だから、倒せるなら倒した方がいい。その方が自分も傷つかない。隣で手当てをしていたユキが、小さく目を伏せる。
ライは一瞬きょとんとし、それから、肩を震わせて低く笑う。
「……っ、くくっ。お前、自分が何言ってるか分かってんの? それ、俺にもっと優しくしろって泣き言?」
「なっ……! 違っ……!」
レンが顔を赤くして言葉に詰まる。ライは、レンを真っ向から見据えた。
「お前は、いつも本気で噛み殺しに来るだろ。だから俺も、お前には本気。……他の奴らとは違うんだよ」
その宣言は、レンをライバルとして認めているという、ライなりの宣戦布告だった。レンは奥歯を強く噛み締め、それ以上言い返すことができなかった。
レンには分からないかもしれない。けれど、ユキだけは知っている。
(ライは元々、そういう人だよね)
まだ小学生だった頃。初めてのスパーリングで、相手の前に立ったまま動けなくなっていた幼いライ。『手を出して!』とコーチに言われても、相手が痛がるのが怖くて、泣きそうな顔で首を振っていた。
それでも強くなりたくて、ユキを守りたくて、頑張って人を殴れるようになった。
でも、根っこのところは、たぶん今も変わっていない。自分を犠牲にしてでも、決定的なトドメを刺すことを躊躇ってしまう、不器用で優しい男の子。
そんなライが、唯一、躊躇いなくその拳を振り抜ける相手が、レンなのだ。
ユキは氷嚢をライの頬にそっと当てながら、小さくふにゃりと笑った。
「ライらしいね」
「え?」
ライが顔を上げる。
「ううん。なんでもない。……でも、これ以上怪我したら、俺も怒るからね」
「……はい。善処します」
ライは、ユキの健気な言葉に救われたように、今度は本当に優しい顔で微笑んだ。
壁際で見つめるレンは、胸の奥がぐちゃぐちゃにかき回されるのを感じていた。
自分とライは、たぶん同じボクサーじゃない。同じリングに立って、同じ相手と戦っていたとしても。互いの拳に乗せている感情は、決定的に違うのだと、レンは深く思い知らされていた。




