第四十八話 二人の練習②
「じゃ、始めますよ。ユキ君」
陸さんの真似をするように言ってから、レンの左のグローブがすっと伸びた。
パシッ。
ほんとうに軽い。当てた、というより触れた、に近い。ユキは弾かれたように瞬きをした。
「……え」
「はい、返してください。……ほら、また止まってる」
「軽くても、もらったら返す。……俺のことだけ見て、考える前に返して」
「……っ」
レンの声は、さっきまでより少し低かった。雑に聞こえるのに、妙に真面目だ。ユキは小さく息を吸い、グローブの中で拳をぎゅっと握り直した。
怖い。顔の前に拳が来るのは、どうしても身体が竦む。けれど、目の前にいるのはレンだ。自分に期待する眼差しに応えたい。
「止まらない。まず、返す」
「う、うん……!」
ユキは小さく息をのんで、構えを直した。その横で、ライが明らかに落ち着かない顔をしている。
今度は、ユキの頬当てにグローブが優しく触れる。ユキの肩が、やはり一瞬だけ止まる。
「返して」
レンに促され、ユキが慌てるように左を出し、遅れて右を放つ。
トン。触れるだけの、ひどく遠慮がちな当たり。レンはそれを受けて、目を細める。
「そう。ナイスです。ユキ君」
「……レンが言うと、なんか腹立つ」
ユキがヘッドギアの奥で頬を赤くして抗議する。
「何でっすか」
ライが横から、淡々と口を挟む。
「口調だけ真似しても、中身のどう猛さが隠しきれてないからじゃない?」
「失礼っすよ。ライ先輩」
「でも、今の感じです」
「今の……?」
「いつももらって、止まって、考えてるでしょ」
「……考えてる、かも」
図星を突かれ、ユキが恥ずかしそうに目を伏せる。レンはあっさりと頷いた。
「うん、別に悪いことじゃないですけど。そこで止まると、次ももらうから。……だから、先に返しましょう」
パシッ。
今度は、ユキの左が少し早かった。健気で真っ直ぐな拳。
トン。すぐさま右。ドッ。
「お、いいじゃないですか」
レンが小さく肩を引く。「ね、できるじゃないですか」
その言い方が思ったよりまっすぐで、ユキは一瞬、言葉を失った。
ライもまた、少しだけ目を見開く。どうやら本当に、レンは軽くやっているらしい。いや、軽いだけじゃない。ちゃんと見て、合わせている。
パシッ。トン。バシッ。
「そう、いいですよ、ユキ君」
レンが言う。
「もらったら返す。遠慮してもいいから、止まらない」
「……うん」
まだぎこちない。でも、さっきより止まる時間が短い。ライはそれを見て、ハラハラしたまま、それでも口を挟まなくなっていた。むしろ、息を詰めるみたいに見守っている。
「おや、二人もがんばってますねぇ」
ふいに柔らかな声が落ち、三人がそろってそちらを向いた。少し離れたところで、アレセンに肩を支えられたまま、陸さんがこちらを見ていた。まだ少し顔色は悪いのに、口元だけは穏やかに笑っている。アレセンは、ユキとレンを見て、思わず眉を上げた。
「……レンがねぇ」
半分呆れたような、半分感心したような声。
「何すか、その反応」とレンが不満げに口を曲げる。
「いや、お前のことだから、もっと雑に殴るのかと思ってた」
「ひどいなあ。信用なさすぎでしょ」
「普段の行いが悪い」
ライが冷たく言い放つが、その声は、さっきより少しだけやわらかかった。
アレセンはしばらくレンたちのやり取りを見つめていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……ちゃんと、練習になってる」
その声には、少しだけ驚きが混じっていた。ユキはもらった後に止まりやすい。そこをレンなりに埋めようとしているのが見て取れる。陸さんは隣で、どこか満足そうに目を細める。
「いいことじゃないですか。彼らも少しずつ、形になっている」
「……まあ、そうですけど」
アレセンはそう返してから、ほんの少しだけ唇を結んだ。それに気づいたのか、陸さんがやわらかく言う。
「ね。私たちも練習じゃないですか」
アレセンはすぐには答えなかった。少しだけ眉を寄せたまま、前を向く。
「……練習なのは、分かってます。でも」
一拍置いて、低く続ける。
「自分のために、陸さんがあんなふうに何発も受けるのは……好きじゃないです」
陸さんがわずかに目を丸くした。アレセンは視線をそらさずに言う。
「理屈は分かるし、最後の大会が近いのも分かってます。それでも、陸さんが、平気な顔で削れていくの見るの、あんまり気分よくないんですよ」
「削れていく、は大げさですよ」
「大げさじゃない。終わった瞬間、俺の腕の中に倒れ込んできたじゃないですか」
「それは少し、息が……」
「はいはい」
遮るように返して、アレセンはむっとする。
「そうやってすぐ強がるのも嫌です」
陸さんは小さく息を漏らして笑った。
その横顔を見ていたユキが、ほんの少しだけ目を伏せる。誰かを大切にしたいと願う感情。ユキはそれを肌で感じ、目の前のレンの不器用な優しさ、そして重すぎるヘッドギアの感触と重ね合わせていた。
レンはその空気をあえて崩すように、軽く手を振る。
「そっちは向こうでやってください。こっちは真面目に練習中なんで」
「何だその言い方」アレセンが呆れる。
「いま、俺、陸さん役なんで」
「絶対ちがうだろ」
ユキが吹き出し、ライも小さくため息をつきながら、口元を緩めた。
「……でも、いい感じ」
ユキが、レンを見上げて言う。怖さよりも、レンに応えたいという想いが勝った、強い瞳だった。
「もらっても、さっきより怖くない。……止まらないよ」
「でしょ」
レンは得意げに顎を上げた。
「俺、ユキ先輩のためならちゃんと成長するんで」
「そこは認める。でも、調子に乗るなよ」
ライが釘を刺すが、レンは「乗ってないって」と笑い、再びグローブを上げた。
ユキもそれに合わせて構え、小さく、けれど確かな決意で息を吐く。
パシッ。パンッ。
その音を聞きながら、アレセンはまだ少し不機嫌そうな顔のまま、けれど支える腕だけはきちんと陸を抱えていた。陸もまた、そんなアレセンの横顔を見上げて、小さく微笑む。
体育館の隅で、軽い音がまた続く。止まらないための練習。返すための練習。その不器用な真似事が、今度は別の二人の間で、少しずつ形になりはじめていた。




