第四十七話 二人の練習①
ラウンドの終わりを告げるタイマーが鳴ったあとも、リングのまわりにはまだ、さっきまでの重い音が薄く残っている気がした。
軽く打って、返させる。返すなら、本気で。アレセンはリングを降りたあともしばらく、胸の奥がざわついたままだった。
一方、その様子を少し離れた場所から見ていたレンは、あきれたように眉を寄せていた。
「……わけ分かんない練習してるな、あの二人」
ぼそりと漏らすと、隣にいたライが、視線だけをリングのほうへ向けたまま言う。
「分かんなくていいんじゃない」
「いや、だって」
レンは軽く顎をしゃくる。
「軽く打たれて、本気で返せってことでしょ。何のために? 意味わかんないでしょ」
ライはそこでようやく、少しだけ冷たい目をレンに向けた。
「みんながみんな、お前みたいに誰彼構わず全力で殴れるわけじゃないんだよ」
静かな声だった。けれど、その言葉は妙に鋭く刺さった。レンは一瞬だけ黙って、それからむっとしたように顔をしかめる。
「……俺がバカみたいな言い方じゃないっすか」
「そう聞こえたなら正解」
「感じ悪……」
「お前がそれ言う?」
ぴしゃりと返されて、レンは唇を尖らせた。けれど、すぐにまたリングのほうへ目を戻す。
アレセンに肩を貸されながら、陸さんが何か言っている。ふらついているくせに、どうせ「どこも痛くないですよ」だの何だの、強がっているのだろう。アレセンがむすっとした顔で返しているのが、ここからでもなんとなく分かった。
「でもまあ」
レンはぼそりとつぶやく。
「ユキ先輩の練習にはなるかもなぁ」
「何が」
「もらうと止まっちゃうから」
ライは何も言わなかった。代わりに、少しだけ視線を横へ流す。
少し離れたところで、ユキもまた、さっきのスパーをじっと見ていた。真面目な顔で、何かを考えているみたいに。
ライはその横顔を見て、小さく息をついた。
「……そうかもな」
一発もらったあと、一瞬止まる。怖いとか、痛いとか、そういう単純なものではない気がする。ただ、ほんのわずかに身体が遅れる。その間に次が来る。それが、ユキにはある。
レンは壁から背中を離して、呼びかける。
「ユキ先輩。俺が陸さん役やりますんで」
急に言われて、ユキがぱちりと瞬きをする。
「……ん?」
「だから」
レンはリングのほうを親指で示した。
「一緒にやってみましょうよ、あれ。軽くもらったら、止まる前に返すやつ」
ユキは少しだけ眉を寄せて、レンを見た。
「いや、待って」
「何すか」
「陸さん役がレン……もっともキャラ遠くない……?」
横から、ライが「ふっ」と鼻で笑う音を漏らした。レンは露骨に嫌そうな顔をした。
「失礼だな」
「だって」
ユキは困ったように苦笑する。
「陸さん役って、もうちょっとこう……静かで、やさしくて、圧がない感じじゃない?」
「圧なんてないでしょ、俺」
「あるでしょ」
ユキとライの声がきれいに重なった。
レンは一瞬だけ黙りこみ、それから心外そうに眉をひそめる。
「……連携いいな」
ライは、じっとレンを見る。
「というかお前、ユキに手加減とかできるの?」
「もちろんっす」
レンは胸を張った。
「日々成長してるんで」
ライは無言だった。返す言葉もない、その沈黙が信用していないと語っている。
けれどユキは少しだけ笑って、それからグローブを上げた。怖いけれど、レンが自分のために言ってくれているのが分かるから。
「……じゃ、よろしくお願いします。軽く、ね」
「分かってますって。……あ、ちょっと待ってて」
レンは踵を返すと、リングサイドから赤いヘッドギアを手に取って戻ってくる。そして、ユキの正面に立ち、それを無造作に差し出す。
「はい、これ」
「えっ?」
ユキは目を丸くした。
「マスより軽い、触るだけの練習でしょ? いらないよ」
「いります」
レンは有無を言わさぬ低い声で遮った。
「俺は被んないですけど、先輩は被って」
「でも……」
「いいから」
レンはユキの返事を待たず、両手でヘッドギアをユキの頭にすっぽりと被せた。一気に視界が狭くなり、ユキが小さく「わっ」と声を漏らす。
レンはそのまま一歩距離を詰め、ユキの顎下にあるベルトの紐に指をかけた。
「……じっとしてて」
囁くような声。レンの指先が、ユキの白い顎から首筋にかけて、ひどく慎重に滑る。ぎゅっ、とベルトが締められる。
レンは満足げに目を細め、ユキのヘッドギアをポン、と軽く叩いた。
「よし。これで完璧」
「……なんか、レンに守られてるみたいで、変な感じ」
ユキが戸惑ったように上目遣いでレンを見る。
「守りたいって思ってますよ。誰からも」
静かな呟きに、ユキは息を呑む。すぐ横で見ていたライが、呆れたような、けれどどこか諦めたような深い溜息をついた。




