第四十六話 最後の大会前②(★)
陸さんの左手が、すっと伸びてくる。
額のあたりに、軽く触れるようなジャブ。痛みというより、ここですよ、と印をつけられたみたいな当たり方だった。アレセンは思わず顔をしかめる。
「……優しすぎるでしょ」
「では、返してください」
「これに本気で返すの、だいぶ罪悪感があるんですけど」
「いいんです。今日は、当てられたら返す練習なので」
アレセンは左を置き、右を放った。
ドスッ。
「っ……!」
陸さんの呼吸が一瞬、跳ねた。胸元がわずかに詰まって、それでもすぐに顔を上げる。
「はい、今のです」
「……後で痛いとか泣き言、言わないでくださいよ」
「言いません」
けれど、続かなかった。次の一打で、アレセンの拳はまた手前で鈍った。当たる寸前で、自分でも分かるくらい力が抜ける。身体に触れたのは、さっきの半分にも満たない、ぬるい音だった。
陸さんは、グローブを下げないまま、少し首をかしげた。
「うーん。今だけ、私のこと嫌いになれませんかねぇ」
一瞬、アレセンは本気で黙った。
「……そんな都合よく、無理ですよ。そういうこと言われると、余計やりにくい」
陸さんはそこで、ああそうですか、というふうに小さくうなずいた。でも、その顔はまるで悪びれていない。静かに続ける。
「やりにくいまま、もう少しだけ迷いがなくなってほしいんですよ」
その言葉が、妙に深いところに刺さった。逃がさない、と言われているのと同じだった。やさしい声なのに、引き下がる気配がまるでない。
アレセンは奥歯を噛む。何か言い返そうとして、言葉が見つからない。代わりに、拳に力がこもった。
「……こっちだけ本気にさせて。ほんと、タチ悪い」
最初は、まだそんな言葉の応酬があった。けれど、返すたびに言葉は削ぎ落とされていった。陸さんの軽い打撃が、アレセンを煽るように響く。それに呼応するように、アレセンの拳は際限なく重く、深くなっていく。
パシッ。ドン。ズンッ。
弾かれたように陸さんの首が揺れ、汗が飛ぶ。軽い音と重い音が、二人の荒い呼吸と混ざり合い、空気を震わせる。アレセンの頬の内側がじりじりと焼け焦げるように熱い。
自分のためらいも、迷いも、彼はすべて分かった上で「もっと来い」と差し出してくる。それが、たまらなく悔しかった。
ドゴッ。バスッ。
何度も、何度も拳を埋める。そのたびに陸さんの身体が揺れる。それでも彼は決して下がらない。軽く打って、また返させる。まるで、どこまでも受け止めると言われているみたいだった。
1ラウンド終わったところで、アレセンはようやくホッとしたように大きく息を吐いた。
「……終わりましたよ」
確認するように言う。でも陸さんは、ごく静かに首を振った。
「次は2ラウンド目。君が私に、本当に迷いなく返せるようになるまで……続けましょう」
あっさりした言い方に、アレセンは小さく息を漏らす。笑いなのか、呆れなのか、自分でも分からない音だった。
「……立てなくなっても知りませんよ」
そこから先は、言葉すら必要なかった。
パシッ。ズンッ。ドガッ。
さっき言われた言葉が、まだ奥のほうで燻っている。嫌いになんてなれない。なれないまま、それでも拳は止まらなくなっていた。
ただ、当てられたら返す。返すなら、少しでも深く。それだけを身体に覚え込ませる。
近い距離のまま、陸さんは何度も打ってくる。軽いのに逃げられない。やさしいのに容赦がない。そのたびに、アレセンの胸の奥はますますざわついた。
最後の一撃は、迷いなく彼の鳩尾を貫いた。
「っ……くっ……!」
呼吸が止まる。けれど、その目はちゃんとこちらを見ていた。苦しそうなのに、どこか満足そうで、そんな顔をされると余計に困る。
「はい。……それ、です……」
終了を告げるタイマーが鳴り響いた瞬間。張り詰めていた糸が切れたように、陸さんの身体がふっとよろめいた。
「……っ、危ない!」
アレセンは咄嗟に腕を伸ばし、崩れ落ちる陸さんの腰を強引に抱きとめた。勢い余って、彼の身体がアレセンの胸の中にすっぽりと収まる。
「はっ……ぁ……」
腕の中の身体は、驚くほど熱い。ぐったりと体重を預けてくる重さが、さっきまで受けていた衝撃の全部を急に現実にする。肩口にかかる息が熱い。近すぎる、と思う。でも離せなかった。
「ナイスです……完璧な返しでした」
「はあ……、あきれた」
アレセンは低い声で唸り、抱えた腰に添えた手に力を入れる。
「降りたら、痛いとこ全部教えてください。俺が、冷やしますから」
自分の腕の中で息をつく陸さんを見つめる。その弱った身体と、口元に残る穏やかな笑みが、胸の奥をきりきりと締めつけた。
散々自分を本気にさせておいて、最後はこんな無防備に腕の中に落ちてくる。本当に、ずるい大人だ。
「優しいですねぇ、君は」
耳元で囁かれた声に、アレセンは思わず目を閉じかけた。低くて、かすれたその声が、変に近いところをなぞっていく。支え直すふりをして、腕に少しだけ力を込める。
「言ったでしょ。嫌いになんて、なれないんですよ。……困るんですよ、こういうの。
ほら、降りますよ。ちゃんと俺に掴まってください」
「はい」
素直に返事をする声音は、おとなしかった。アレセンは支えたまま、ゆっくりリングを降りる。
最後の大会は近い。その前に、返せるようにしたい。後悔しないようにしたい。分かっているのに。こんなふうに頼られたら、結局また、嫌いになれないままなのだ。
腕の中の熱が離れなくて、アレセンの胸の奥はずっとざわついていた。




