第四十五話 最後の大会前①
土曜の体育館は、午後の光を少しだけ残したまま、空気はどこか沈んでいた。
窓の外はまだ明るい。けれど、リングのまわりだけは別の時間みたいに静かだ。遠くでロープを跳ぶ足音がして、ミットの乾いた音が薄く響く。
リングの中央、陸さんとアレセンは向かい合って立っていた。コーチと生徒。けれど、同じ階級の二人。慣れているはずの間合いなのに、今日は距離の近さが妙に息苦しい。アレセンはグローブの中で拳を握り直し、わずかに目を細めた。
陸さんは静かだった。いつも通りの、やさしそうで、でも少しも逃がしてくれない目でこちらを見る。
「今日のスパーのテーマは、打たれたら返す、です」
落ち着き払った声に、アレセンは露骨に怪訝な顔をした。
「……は? なんでまた急に。そんな基礎練みたいなこと、今さらやる意味あります?」
「基礎だからこそ、今の君には一番必要なことなんです」
陸さんが、一歩だけ距離を詰める。
「なにが言いたいんですか」
「アレセン君。君、我慢するのは慣れてるでしょう。でも、本気で返すのはまだ少しためらう。そこが課題です」
息が止まる。図星だった。殴られるのは怖くない。痛いのも、効くのも、わりと平気だ。飲み込むのも、耐えるのも、昔からそれなりにできる。そうやってやり過ごすことには慣れている。
でも、本気で返すとなると違う。打ち抜けるのに、どこかで止めてしまう。相手に届く手前で、最後の一線を自分で鈍らせる。
それを、この人は知っていて、こうして真正面から言ってくる。
「打てるはずの距離で、君は必ず拳を鈍らせる。相手を傷つけてしまうかもしれないという恐怖。最後の一線を自分で引いてしまっているでしょう」
「……俺は、ただ……」
「もうすぐ最後の大会でしょう。後悔ないようにしたいんです」
その言い方が、あまりにまっすぐで、アレセンは言葉に詰まる。やわらかな声が、逃げ道を完全に塞いでいく。
「だからって、アンタを本気で殴れって言うんですか」
アレセンはわざと荒く吐き捨てた。そうでもしないと、まともに受け止めるのが少ししんどかった。
「そうです。遠慮しないでください」
陸さんは迷いなく頷く。あっさりしすぎていて、アレセンは半笑いになった。
「ほんと、横暴だなあ……!」
ギリッ、と奥歯を噛み締める。アレセンは深いため息を吐き出し、乱暴に髪を掻き上げた。
「……分かりましたよ。やります。付き合いますよ」
「ええ。お願いします」
「でも……陸さん。せめてボディプロテクター、つけてください」
「そこまでします? 大丈夫ですよ、私は」
「いいから、つけてください。……俺が本気で打ったらどうなるか、アンタ分かってないでしょ」
アレセンは強引にボディプロテクターを持ち出し、陸さんの前に立った。陸さんが苦笑しながら、おとなしく腕を通す。アレセンは正面に回り、ベルトの紐を掴んだ。
背中に腕を回し、腹部を覆うベルトをぎゅっと引き絞る。抱きしめるような姿勢になるせいで、陸さんの体温がシャツ越しにじかに伝わってきた。少し汗の混じった、清潔な大人の匂いが、呼吸のたびにふっと鼻先をかすめる。
ベルトを留めるためにさらに身を寄せると、陸さんはおとなしくされるがまま、アレセンの胸にわずかに体重を預けてきた。
その無防備すぎる重みが、妙に困る。手のひらで位置を確かめるふりをして、アレセンはプロテクター越しに彼の腹部に触れた。その生々しい感触が、嫌でもこれからこの身体を打ち据えるという事実を突きつけてくる。
「……これでいいです」
「ありがとう」
顔を上げると、陸さんがこちらを見つめていた。やわらかい目なのに、見透かされている感じがして、アレセンは少しだけ眉をひそめる。
「やさしいですね、君は」
「……今、それ言わなくていいです」
陸さんはほんの少しだけ口元をゆるめて、グローブを上げ直した。
「じゃあ、始めましょうか」




