第四十三話 曇りの日⑤(★)
校門を出ると、外の空気が冷たかった。ライは生徒会室、どうしても外せない用事。「送れない、ごめん」と悔しそうに言う横で、レンが「俺がユキ先輩、送ります」と言う。
レンの方が、明らかにボロボロだ。シャツの襟は少し乱れていて、唇の端が切れている。頬も腫れ始めて、目の奥がまだ熱いまま。
ユキは歩幅を小さくして、レンに合わせようとする。しばらく無言で歩いて、街灯の下でユキがぽつりと言った。
「レン、一人暮らしだよね」
レンの表情が少しだけ暗くなる。
「……そうっすけど」
「ごはん、食べてる?ちゃんと」
答えるのに、いつもより時間がかかった。
「まあ……腹減ったときに適当に。ゼリーとか、コンビニとか。今日みたいな日は……あんま」
食えないと言わずに、濁す。ユキは、それ以上聞かなかった。代わりに、ふわっと笑う。
「じゃあさ、俺、カレー作っていい?」
レンの足が、一瞬だけ止まった。
「……え」
「カレー。お腹の中があったかくなるやつ」
ユキは自分の顔のあざに触れかけて、途中でやめた。
「辛いのはしみるから、甘口にしよ」
レンは、困った顔をして――小さく言う。
「……いいっすけど、何もないですよ。マジで」
「大丈夫。買いに行こ」
ユキは、当たり前みたいに言った。
◇◇◇
スーパーのカゴの中に、にんじんとじゃがいもと玉ねぎ、豚肉が転がる。レンは棚の前で立ち尽くしたまま、何度も値札を見ている。
「ルーはこっちかな」
ユキが甘口の箱を手に取る。
「甘口……」
レンが、呟くみたいに繰り返した。
「何その顔」
「……いや。俺、甘口とか、久しぶりっす」
ユキは「そっか」とだけ言って、箱をカゴに入れた。
◇◇◇
レンの部屋は、本当に何もなかった。床も机もきれいすぎて、生活の匂いが薄い。キッチンの片隅に、小さい鍋がひとつ。包丁とまな板はある。
ユキが袖をまくって、手際よく玉ねぎを切り始める。レンは壁際に立って、その背中をぼんやり見ていた。
「……ユキ先輩、慣れてますね」
「うん。姉ちゃんが、昔、なんにもできない日も、これだけは作れるっての持っとけって。それがカレー」
ユキは言いながら、レンの方をちらっと見る。
「レンの家は?」
レンの視線が、すっと下に落ちる。いつ帰っても暗い家。たまの書き置きと冷えた惣菜。
ユキは「いいよ。言わなくて」とふにゃっと笑う。
鍋の中で、玉ねぎが透けていく。バターの匂いが部屋に広がって、レンの眉がほんの少しだけ緩んだ。
火を弱めて、ルーを入れる。とろみがついていくのを、レンは黙って見ていた。
「はい、完成」
ユキが言うと、レンが小さく息を吐く。
「……すげぇ」
その一言が、子どもみたいで、ユキは笑った。
小さなテーブルに、皿を並べる。カレーの湯気が、まだふわふわと立っている。
レンはスプーンを持ったまま、じっと皿を見つめていた。
「……熱い?」
ユキが気づいて聞くと、レンは一瞬だけ目を逸らす。
「……口、ちょっと切れてるんで」
強がりみたいな声だった。
「そっか」
ユキは、それ以上言わずにスプーンを取った。皿から、そっとカレーをすくう。ふー、ふー、と小さく息を吹きかける。
「ちょっと冷ますね」
レンの肩が、わずかに強張る。
「……え」
「もうちょっと待ってて」
ユキは、いつもの調子で言う。当然のことをしているみたいに。一拍置いて、スプーンが、ゆっくりレンの前に来る。
「はい、どうぞ」
レンは、一瞬だけ固まった。逃げる理由も、断る理由も、見つからない。
「……ユキ先輩」
「ん?」
「それ、反則っす」
そう言いながら、ちゃんと口を開ける。
舌に触れたカレーは、まだ少し熱くて、でも優しい。辛さはなくて、じんわり広がる甘さだけが残る。
レンの喉が、ごくっと鳴った。
「……今までで、一番うまいっす」
ユキは、ほっとしたみたいに笑った。胸が、きゅっとなる。味の話じゃないのが、分かるから。
「よかった」
そのまま、もう一口。今度は少しだけ冷めていて、痛くない。レンは目を伏せたまま、ぽつりと言う。
「……俺、こんなふうに世話されるの、慣れてないんで」
「うん、なんとなく分かるよ」
ユキは、静かに返す。
「ちゃんと食べて、ちゃんと戻ろ」
強くなろうでも、勝とうでもない。レンの胸に、その言葉がゆっくり落ちる。
「……はい」
そのまま、俯いて――ぽた、と何かが膝に落ちた。レンが手の甲で乱暴に拭う。
「……すみません」
「なにが」
ユキは、できるだけ軽く言った。レンは笑おうとして、失敗した。
「俺……ユキ先輩倒して。逃げて。戻って。殴られて……」
言葉が途切れて、息が震える。ユキは黙って、レンの手元を見る。バンテージの跡がうっすら残っている。指先が、微かに震えている。
「レン」
ユキは、呼んでから少し間を置いた。
「ひとりで走っていかないで。戻ってきたの、えらかった。どうしようもない奴はね、帰ってこないよ」
レンが、顔を上げる。目の縁が赤い。
「帰ってきて、ここで座って、ちゃんと食べて、ちゃんと謝ってる」
ユキは、ふにゃっと笑う。誤魔化しじゃなくて、本当の笑い。
「それ、すごいよ」
レンの唇が、ぎゅっと結ばれた。堪えきれない顔。
「……俺、またやるかもしれない」
かすれた声。
「怖いっす。自分が」
ユキは、少しだけ身を乗り出して、レンの手の甲に指先を置いた。ただ、ここにいるよっていう触れ方。
「怖かったら、言って」
ユキは小さく言う。
「言えたら、その時一緒に考えよう」
レンが、ゆっくり息を吐く。涙がもう一回落ちて、でも今度は拭わなかった。
「……甘口、しみるっすね」
小さく笑って、レンは言った。ユキも笑う。
「しみるくらいで、ちょうどいいよ」
テーブルの上のカレーの湯気は少しずつ消えていく。代わりに、部屋の中に、静かなあたたかさだけが残った。




