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臆病な僕と、リングの約束 ーAパート 放課後サイドー  作者: 叶畑シュウ
第二章

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第四十ニ話 曇りの日④

 レンは前に出た。さっきよりも、真っ直ぐに。だけど――真っ直ぐなほど、アレセンとの差が見える。

 ジャブで止められる。ステップでずらされる。踏み込んだ瞬間、カウンターが刺さる。顔、ボディ。痛みの場所が、増えていく。痛いのに、頭は妙に冴えていく。


(ああ……これが強いってことか)


 レンがラフに近づいて、クリンチに持ち込もうとする。アレセンに体重を預けた瞬間、アレセンの体が、レンの胸ごと押し返した。


「甘い。自分で立て」


 拳の方はもっと残酷だった。右が走る。レンのガードが間に合わない。

 

 ガツッ。


 視界が白くなる。足が、自分のものじゃなくなる。


「ストップ!」


 体育館の入り口から陸さんの声。大きくない、その一言でリングの空気が切れた。

 

 レンの肩が上下している。ロープにもたれて、視線だけがまだアレセンを追っていた。 ――止め方が分からない目。

 アレセンは半歩、前に出ようとして、そこで止まる。陸さんがリングに上がって、ふたりの間に体を滑り込ませた。


「はい。ここまでにしましょう」


 腕を広げて、ふたりの胸をそれぞれ押し返す。押し返し方は乱暴じゃない。けれど、決定が揺らがない。


「アレセン君、十分伝わりました。今日はここで止めましょう」


 アレセンは一拍だけ黙って――舌でマウスピースを押し直した。


「……はい」


 短い返事。それ以上は言わない。陸さんは、レンのほうへ戻る。


「レン君。座りましょう。呼吸が戻るまで」


 レンは「嫌だ」と言いそうな顔をした。でも、足が言うことをきかない。

 強がりだけ残って、体の芯はもう崩れている。レンは、ゆっくり膝をついた。


 ドサリ。


 殴られたからじゃない。止められたから、落ちた。陸さんはその横にしゃがみ、声を落とす。


「最後まで立とうとした、えらいですよ」


 レンの目が、かすかに揺れる。褒められてるのに、痛い。


「……俺、えらくないっす」


 絞り出すような声。


「止められたんです。止めてもらえた」


 陸さんは、そこで一度だけ笑った。困ったみたいに。アレセンは、レンの横に来て、タオルを投げる。顔に当たって、レンの鼻がむずがゆくなる。


「……泣くなよ」


 小さな声。馬鹿にしてないし、慰めてもいない。レンはタオル越しに、息を吸って目元をぬぐった。


(空っぽになったら、俺は、何になるんだろ)

 

 そのタイミングで――ロープが揺れた。先にリングに入ってきたのは、ユキだった。

 

「レン……」


 名前だけ。それだけで、胸の奥がひどく痛くなる。

 続いて、ライが入ってきた。無言。表情も動かない。でも、目だけが鋭くレンを捉えている。


(……殴るって顔だ)


 一瞬、そう思ってしまって、レンは笑いかけた。でも笑えない。喉が詰まって、息が漏れるだけだった。

 ユキがしゃがみこんで、レンの肩のあたりに手を置く。そっとした触れ方。


「立てる?」

「……もちろんっす」


 レンは言っただけだった。身体が、ついてこない。その瞬間、ライのため息が落ちる。


「……バカ」


 ライはレンの反対側に回り、迷いなく腕を差し出した。肩の下。脇のあたり。いちばん楽に体重を預けられる場所。


「肩貸すから。今は意地張るとこじゃねぇ」


 命令みたいなのに、叱責より先に支える前提があった。レンは悔しくて、目を閉じた。でも、閉じても状況は変わらない。ユキが小さく息を吸って、レンの背中に手を添える。


「いまは……ふたりいるから」


 レンの胸の奥が、ぐしゃっと崩れた。やめてほしい。こんなときに優しくしないでほしい。

 ――それが一番、効く。


 レンはゆっくり、ユキとライの腕に体重を預けた。立ち上がる、というより、引き上げられる。


「……っ」


 足が床を探す。キャンバスが、ふわっと沈む。一歩出して、次の一歩が遅れる。膝が笑って、肩がぐらりと傾いた。


 その瞬間、ライの腕がさらに強くレンを支えた。無駄のない力で、体幹で受ける支え方。


「落とさないから」


 自分にも、レンにも言ってるみたいだった。ユキも、レンの背中に回した手に力を込める。レンは、唇の端を歪めて言った。


「……俺、重いっすよ」


 強がりが、これしか出てこない。ライが即答した。


「黙れ。重いに決まってんだろ」


 ユキが、少しだけ笑う。


「レン、今日は……もういいよ」


 その「いいよ」が、レンの胸を突いた。許されるのが怖いのに、欲しくてたまらない。

 三人で、ゆっくりロープ際へ向かう。ロープをまたぐ瞬間、レンの足がもつれて、また傾きかける。

 ユキが「あっ」と声を上げるより先に、ライがレンの腰を引き寄せた。ついでみたいに、低い声が落ちる。


「……戻ってきたらぶん殴ろうと思ってた」


 レンの喉が、ひゅっと鳴る。でも、ライは続けた。


「今日はやめといてやる。次やったら、俺が殴る」


 ため息ひとつ。怒りを吐くためじゃない。飲み込むための。レンは、ふっと笑ってしまった。笑ったら口元が痛くて顔が歪む。


「……了解っす、副会長。まあ、楽しみにしてます」


 返事が軽い。軽くしないと崩れるから。ユキが慌ててレンの顔を見る。


「え、やめて、楽しみにしないで……!」


 ユキは、レンを支えたまま小さく言った。

 

「俺は平気だよ。さっきはちょっと……びっくりしただけで」


 ライが即座に返す。


「お前の平気は信用してない」


 ユキが「う……」と黙る。レンはそのやりとりを聞きながら、胸の奥が妙に落ち着くのを感じた。


(……ちゃんと、見張られてる。支えられてる)


 ユキとライに挟まれたまま、レンはロープの外へ降ろされた。足が床を捉えた瞬間、膝がまた笑いそうになった。ライが無言で腰を支え直し、ユキが「ゆっくり」と小さく言った。


 リングの上には、アレセンと陸さんが残っていた。さっきまでの音が嘘みたいに、静かになる。

 顧問はリング下でうろうろして、口を開けかけては閉じた。止めるべきだったのは自分だ、と今さら気づいた顔。

 アレセンは、グローブを外さないまま、ロープにもたれて息を整えている。汗が顎先から落ちる。

 

「……陸さん」


 呼び方が、いつもより小さい。それだけで、さっきまでの部長の顔が少しだけ外れたのが分かる。一拍、迷ってからアレセンは言った。


「やりすぎましたかね」


 謝り方が、上手じゃない。反省してないみたいに聞こえかねない言い方。陸さんは、すぐに首を振らなかった。

 リングの外――レンがユキとライに支えられているのを、ちらっと確認する。それから、ようやくアレセンのほうに視線を戻した。


「……ううん、君にしかできないです」


 穏やかな声。アレセンが、ほんの少しだけ眉を動かす。それは驚きにも、照れにも見えた。


「レン君には……止めるより、受ける相手が必要だった。大人が止めるのは、最後でいいですから。今日みたいな日も、必要なんだと思います」


 アレセンは視線を落とす。

 

「……俺、陸さんみたいに上手く話せないんすよ」


 言い訳みたいに言って、でも言い訳にしたくない顔だった。

 

「でも責任感はある。……立派ですよ。アレセン君」


 陸さんは小さく頷いて、アレセンの肩に軽く手を置く。リングを降りようとすると、顧問が焦った顔で近づいてくる。


「陸さん、ほんと助かった。すまん……」

「いえいえ、僕は土曜だけですから。先生方は毎日、大変ですねえ」


 いつもの調子で穏やかに笑って受け流す。

 リングの外では、ユキとライがレンをゆっくりベンチに座らせていた。

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