第四十一話 曇りの日③(★)
リングの上。レンは、最初の数秒で悟った。
(……あ、これ、無理なやつだ)
アレセンの拳は、大きく振られない。むしろ静かだ。静かなのに、当たる。当たった瞬間だけ、音が重い。
ジャブを刺す。レンが頭をずらす。その先がもう読まれている。
レンが踏み込む。アレセンが半歩引く。――距離の端は、ずっと向こうの手の中だ。
触れさせてもらえない差だった。ようやく、体を預ける距離まで潜り込んだと思った瞬間、アレセンの肘と肩が壁みたいに当たって、レンの呼吸を押し返す。
「……っ」
息が詰まる。ボディを狙ったはずの拳が、空を切った。
「どうした」
アレセンの声は、責めていない。ただの事実みたいに言う。
「ユキには威勢よく振ってただろ」
レンは奥歯を噛みしめる。悔しさも、怒りも、今日の全部も、アレセンにぶつける。
――なのに、届かない。
(……くそ)
レンの拳が、少しずつ荒くなっていく。荒くなるほど、アレセンの目には見やすくなる。前に出た――つもりだった。アレセンの肩が、ほんの少し下がる。
「……遅えよ」
ぽつりと落ちる声と同時に、左肩が軽く跳ねた。軽いジャブが飛んでくる。
レンは反射でガードを上げた――その瞬間、視界の下ががら空きになる。
すぐさま左のボディがえぐるみたいにめり込んだ。みぞおちの少し下、空気をまとめて抜きにくる角度。
「……っ、ぐ……!」
膝が、ほんの一瞬だけ笑う。その一瞬を、アレセンは逃さない。右のショートフックが、こめかみの横をドン、と叩く。視界がぐらりと揺れた。追い打ちみたいに、最後の左アッパーが顎をすくい上げる。
ゴッ。
さっきまでと明らかに違う音。体育館の空気が、ひとつ縮むみたいな重さ。
レンの顎が跳ねて、マウスピースが口から抜けた。白い塊が、弧を描いてキャンバスに落ち、ロープの外へ向かって転がっていく。
「くっ……!」
レンは反射でロープに手を伸ばし、身体を預けた。足の裏が一瞬、床を見失う。ヘッドギアの中が、急に狭く、遠くなる。
そのとき――体育館の扉が開く音がした。
「……レン」
低い声。ライだ。その横に、保健室から戻ってきたユキがいた。顔にはまだ薄く赤みが残り、歩き方も少しぎこちない。
ユキの視線が、リングへ向かう。ロープにもたれて肩で息をしているレンを見つけた瞬間、眉がきゅっと寄った。
リングの端っこには、転がったマウスピースが止まっている。ユキはゆっくりそれに近づき、拾い上げた。
白い塊を、掌に包むように持つ。ユキは、そのままリングに近づいた。ロープの間から顔を覗かせる。
ロープにもたれているレンが、そちらを見た瞬間だけ、ぐらりと表情が揺れた。
(来んな)
そう言いたいのに、喉がうまく動かない。代わりに出たのは、かすれた声だった。
「……ユキ先輩」
ユキの肩が、小さく跳ねる。
「ケガ……なかった?ほんと、よかった……」
言葉が、いびつにこぼれ落ちる。謝りたいのに、うまく謝れない。安心する資格なんてないくせに、安心してしまっている自分が、いちばん嫌になる。
レンは、ロープを握る手に力を込めた。
「俺、どうしようもない奴なんで……」
声が、少し震える。怒りじゃない。怖さだ。
「……でも今」
レンは、ユキの目から視線をそらさずに言う。
「ちょっとマシになるところなんで、見ててください」
ユキは、一拍だけ黙ってから、こくんと頷いた。
「……分かったよ、レン。見てる」
その声は、「ここにいる」とだけ約束する声だった。許すでも、甘やかすでもなく、ただ受け止めるための声。
ユキは背伸びするみたいに腕を伸ばし、レンの口元にマウスピースを差し出す。
「噛んで」
レンは、唇を開けた。ユキの震える指先が、ほんの一瞬だけレンの唇に触れる。
そのままそっと、マウスピースをレンの口の中に押し込んだ。レンの呼吸が、その一瞬だけ止まる。
ユキの手が離れ際に、レンの頬をそっとなでる。安心させるみたいに。
「……いける?」
レンは、小さく頷いた。
リング下で、ライが拳を握る。表情は動かない。目だけが、ぎりっと細くなる。
アレセンは、何も言わない。ただ、少しだけ間合いを取って待っている。
陸さんや顧問の気配が遠い。このリングの上にいるのは、今、レンとアレセンだけだ。
「……行きます」
レンが、絞り出すように言った。




