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臆病な僕と、リングの約束 ーAパート 放課後サイドー  作者: 叶畑シュウ
第二章

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第四十話 曇りの日②

 外のトイレは、体育館の横の古い棟にあった。曇りガラス越しの薄い光。蛍光灯の白さで冷え冷えとしている。誰もいない。

 レンは、勢いのまま手洗い場まで行き、水道の蛇口をひねった。冷たい水が勢いよく流れ出す。そのまま頭からかぶる。髪を伝う水滴が、首筋から背中へと冷たく這う。けれど、胸の奥の痛みは洗い流せなかった。


「……っ、は……」


 しばらく水をかぶって、ようやく少しだけ呼吸が落ち着いてきたとき。ふと顔を上げると、目の前に鏡があった。濡れた前髪の隙間から、自分の目がこっちを見ている。頬の輪郭。目の奥の、どこか濁った光。口元の引きつり方。


(マジかよ)


 笑いそうになって、喉の奥が引きつった。


「……マジで、アイツに似てきたな」


 鏡の中の自分が、誰かを殴ったあとみたいな顔をしている。実際、大事な人間を殴った。雨の日の泣き笑いがフラッシュバックする。「俺、この人を本気で殴れない」って決めたのは、自分だ。


(殴れねぇどころか──)


 結局、我慢できずに打ち抜いている。生まれたときから乱暴さが組み込まれているというのか。誰かを傷つけるほうにばかり、簡単に向く手。


「……クソが」


 吐き捨てるように言って、鏡の横の白いタイルの壁を殴った。ドン、という鈍い音。拳に、じんじんと熱い痛みが走る。


「っ……」


 痛みで、少しだけ頭がクリアになる。鏡の中の自分は、やっぱり父親に似ている。似てほしくなかった部分に限って、よく似ている。レンは、濡れた前髪をぐしゃぐしゃとかき上げた。


「……こえぇな、俺」


 自嘲気味に笑って、蛇口をひねる。頭の中の「ドゴッ」という音と、ユキが崩れ落ちた姿だけは、どんなに水をかぶっても洗い流せそうになかった。


 ◇◇◇


 レンは、結局、体育館に戻ってきてしまった。行く場所も、帰る場所も、他にない。頭の中ではユキの「レン、戻って――」が反響している。戻ったところで何も変わらないとしても。


 扉を押すと、いつもの空気――のはずなのに、やけに薄ら寒い。奥から、サンドバッグを叩く重い音が聞こえた。その音が、レンの気配に気づいたみたいにぴたりと止まる。


「……戻ってきたか」


 低い声。顔を上げると、アレセンがいた。二つ上の先輩の目は、いつも通り淡々としている。

 レンは視線を逸らして、靴紐を結び直すふりをした。手が微妙に震えて、うまく結べない。


「皆、ユキを連れて保健室。お前、逃げたんじゃなかったのか」

「……帰るとか、ないっす」


 言葉を絞り出すレンの指先は、まだ微かに震えていた。アレセンはそれを咎めることもなく、リングを顎でしゃくる。


「リング、上がれ」

「今、そういう気分じゃないっす。それに、部長と俺じゃ階級違うでしょ」


 レンはぶっきらぼうに即答した。声を尖らせておかないと、崩れそうだった。

 アレセンが、ほんの少しだけ眉を動かす。笑ってはいない。それでも、二つ上の余裕が、言葉の端ににじむ。


「ユキとお前も違うだろ」


 レンの肩が、ぴくりと跳ねた。たったひと言が、殴るみたいに的確に入ってくる。アレセンは淡々と続ける。声は静かなのに、逃げ道は塞いでカウンターのように突き刺さる。


「勝てそうな奴とじゃないと、やりたくないか?」


 胸の奥が、ぐっと反発で膨らんだ。さっきまでの自己嫌悪が、別の形に変わっていく。怒り、というより、血の気が増える感覚。


「……ケンカ、売ってます? 買いますけど」


 レンは、口だけ笑った。目はまったく笑っていない。アレセンは、ふっと息を吐き、呆れたような顔をする。


「先輩への口の利き方、どうなってんだ」


 一拍おいて、声が少しだけ低くなる。


「……お前さ。人殴りたくて、ボクシングやってんだろ」


 図星。レンは返事につまった。言い返せない。喉まで上がってきた言い訳が、自分でもあまりにもみっともなくて、飲み込む。

 アレセンは、レンの沈黙を肯定と受け取ったみたいに、さらに続けた。


「でもな。頭ぐちゃぐちゃなときも、ユキにぶつけるな」


 奥歯が軋む。何も言い返せない。


(……ぶつけたくて、ぶつけたんじゃねぇ)


 そう言いたいのに、言った瞬間、その言葉ごと殴り倒されそうな予感がする。

 アレセンは視線を逸らさないまま、顎を少し上げて、リングを見上げる。


「だから、ここ。いま、空っぽにしていけ」


 優しくない言い方なのに、暗闇のなかの光る糸みたいに聞こえた。レンは、ぐっと唇を噛む。痛みで、頭が少しだけ澄む。


(……こいつ)


 アレセンは、何があったか全部は知らない。でも、レンの胸の奥の暗いところに、ちゃんと気づいている。レンは靴紐をきつく結び直して、リングに向かって歩き出した。

 リング下で、アレセンがロープを押さえた。


「すこしは先輩に礼儀くらい見せろ。ヘッドギア、つけろよ」

「……うっす」


 悪態みたいに返しながら、手は素直に動く。ヘッドギアを被り、マウスピースを噛んで、リングに入る。キャンバスの沈み込みで、さっきまでの現実が、足の裏から遠ざかっていく。

 アレセンもロープをまたいで入ってくる。階級差、リーチ差、圧。全部分かってる。なのに――レンは、ほっとしてしまった。


(殴っていい相手だ)


 ユキには、できなかった。ユキを倒した瞬間、世界が終わったみたいな気持ちになった自分がいた。

 でも、アレセンなら。殴っても、泣かない、殴り返してくる。レンの目が、自然に細くなってリングの顔に切り替わる。

 

「……じゃ」


 アレセンが短く言う。


「来いよ。空っぽになるまで」

「言われなくても……!」


 レンが一歩、踏み込む。その足音が、今日のぐちゃぐちゃをリングの外に置いてきたみたいに響いた。

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