第三十九話 曇りの日①
土曜の朝。窓の外は曇っていて、湿った空気がレンのワンルームのアパートに淀んでいる。
同じ階級にいるライに、届かなかった。この夏は、リングの外で終わるだろう。その事実が、静かな部屋の中でレンの胸に重くのしかかる。
スマホが、テーブルの上で小さく震えた。ワンコール目で、胸の奥がざわつく。画面を見なくても、誰か分かる。
名前を確認する。やっぱり──「母」。レンは、ペットボトルをテーブルに置いて、しばらくそれを見つめた。
(……出なきゃ、あとでめんどくさい)
分かっている。放っておけば、メッセージ、留守電、またメッセージ。ため息をひとつ飲み込んで、通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし」
『あー、やっと出た。アンタ、なに。電話くらいすぐ出なさいよ』
開口一番、母の声は少し高かった。
「もうすぐ出るとこ。学校、部活」
『ふーん。ちゃんとごはん食べてるの?』
親のフリ。たまにしか連絡をよこさない癖に。レンはスマホを耳にあてたまま、黙り込む。ひとり暮らしのワンルームは、静かすぎる。冷蔵庫のブーンという音と、母の声だけ。
「……コンビニで買ってる。気が向けば」
『コンビニねぇ。……部活、インターハイだっけ?夏にある大会』
「出ない。枠、一個しかないから」
『そう。いいじゃない、別に。あんな人を殴るだけの野蛮なこと』
「……なにそれ。俺がやってるのはスポーツ」
『あんたさ、アイツそっくりになってきてない?』
その単語が出た瞬間、心臓が一拍だけ跳ねた。アイツ、数年前に死んだ父親。酒とギャンブル、怒鳴り声。記憶の中では、いつも何か投げている。灰皿、リモコン、食器。
「は? 意味分かんねえ」
口が勝手に返していた。母の機嫌の悪いとき特有の言い方が、耳の奥をざらつかせる。
『分かるでしょ。そうやってすぐムッとして。黙り込んで、こっちの話も聞かないとこ』
「……」
『アイツだってそうだったからね。都合悪くなると黙って、急に怒鳴る。殴る。
小さいころは素直で可愛かったのに──どんどんアイツに似てきて』
その一言で、部屋の空気が少しだけ軋んだ気がした。
「……似てねぇし」
声がかすれた。喉が乾く。母は、そのかすれを聞き逃さない。
『似てるから言ってんの。あたしが一番よく知ってるの。あの人と暮らしてきたんだから』
「似てたら、今ここで話してないでしょ。とっくに怒鳴ってる」
『そうやってすぐ怒鳴るとか言うとこが──』
ガン、と何かが頭の奥で鳴った。レンは、スマホを耳から少し離した。母の声はまだ続いている。何かを、誰かを責めている。でも、言葉の意味は入ってこない。
「……切るわ。出るんで」
『ちょっと、まだ話──』
通話終了のボタンを押す。あっけなく、静寂が落ちた。スマホをテーブルに置いた瞬間、手がわずかに震えているのに気づく。
(……どんどん、アイツに似てきて)
さっきの言葉が、頭の中で何度もリピートされた。
(似るわけねぇ。俺は──)
ゆっくりと、息を吐く。カーテンの隙間から見える空は、どんより曇っている。灰色の中、ユキの柔らかい笑顔が脳裏をよぎる。
「……部活、行こ」
レンは、ジャージを掴んだ。
◇◇◇
体育館の湿った空気が、肌にまとわりつく。縄跳びの音。サンドバッグを叩く音。
「遅刻。おせーよ」
ライが、ちらっとレンを見る。
「ちゃんと来てるじゃないすか」
「遅刻しなかったら褒めてやるよ」
いつもの小言。それだけなのに、どこか全部、遠い。リングのほうを見ると、ユキがロープに背中を預けて、息を整えていた。ヘッドギアはまだつけていない。うっすら汗が光っている。
「レン君、おはようございます」
陸さんが、ストップウォッチを首からぶらさげたまま笑う。
「アップの後、軽くマススパー、一本いけますか? ユキ君と」
ユキがこちらに微笑む。その笑顔も、どこか少し遠い。レンは、自分の口の端だけを上げた。
「了解っす」
軽く身体を動かした後、グローブをはめ、ロープをまたいでリングに上がる。足の裏に伝わるキャンバスの感触だけが、やけにリアルだ。
(マスだ。軽く、当てない。いつも通り……俺は、アイツとは違う)
頭では分かっている。なのに、さっきの母の声が、まだどこかで残響している。
──どんどんアイツに似てきて。
リングサイドには、ライが立っている。腕を組んで、こっちを見ている。
「条件、いつも通りですよ。強く当てない。僕か顧問が止めたら即終了。いいですね?」
陸さんが、穏やかに言う。ユキが「はい」と答える。レンも、小さく頷いた。
「……っす」
自分の声が、自分のものじゃないみたいだと思った。
「じゃ、始め!」
手を叩く音。ユキが、構える。レンも、いつもの位置に手を上げた。
最初の数秒は、ちゃんとマスだった。軽く触るだけのジャブ。肩でいなすフェイント。ユキの顔はまだ少しこわばっているけど、それでも前に出ようとしている。
(大丈夫。俺は、ちゃんと止められる)
そう思った瞬間だった。
「レン君、もう少し抑え──」
陸さんの声が聞こえた、その一瞬手前、ユキが、恐る恐る伸ばしたジャブを見て、頭の中が真っ白になった。目の前に、別の光景が重なった。
飛んでくる灰皿の残像と怒鳴り声。
「ムカつく」「うるさい」「黙れ」。
気づいたときには、身体が勝手に反応していた。──スイッチが入る、あの感覚。ユキのジャブを、ほんの紙一重で外に払う。そのまま、右ストレートを真っすぐ。
ドゴッ。
マスの音じゃなかった。ヘッドギア越しに、誰かの頭蓋を叩いた、重い音。
「……っ!」
身体に染みついたコンビネーションは止まらない。そのまま、左フックでユキの顔面を薙ぎ払う。
ユキの身体が、ぐにゃりと揺れる。ガードが崩れ、そのまま横に倒れた。
「ユキ!」
ライの声が、体育館に響く。
「雨宮、なにやってんだ!」
レンは、ただ自分の左拳を見つめていた。痺れるような感覚。
ユキが、キャンバスの上でうずくまっている。ヘッドギアの中の顔が見えない。
やった、という感覚より先に、──当てた、という言葉が頭の中に浮かんだ。でも、雨の日と違う。これは、衝動的にぶち込んだ拳だ。
「レン君!ストップ!」
陸さんが、素早くリング中央に飛び込む。ライはロープをまたいで、ユキのほうへ駆け寄った。
ユキは、ぐらぐらする視界の中で、腕をレンの方へ伸ばした。
「レン……」
ヘッドギアの奥、かすかに開いた唇が、自分を呼んでいる。胸の奥が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
「……っ」
足が、勝手に後ろへ下がった。
「雨宮、待て──!」
「レン、戻って──!」
ライの声。ユキの声。全部、耳の外に弾かれていく。
レンは、ロープを雑にまたいだ。踏み外しそうになりながら、なんとか床に飛び降りる。
誰かが肩を掴もうとした気配を、乱暴に振りほどいて、そのまま体育館の出口へ向かって走った。
ドアを押し開けると、渡り廊下のひんやりした空気が流れ込んできた。




