第三十八話 インターハイ予選前⑤
ロッカールームでベンチに腰を落としたレンは、前かがみにタオルを頭からかぶっていた。巻いたままのバンテージの拳が、ぎゅっと握られて震えている。
ユキはその前にしゃがみこんで、レンの頬にそっと氷のうを当てようとした。
「……冷やすね」
返事はない。ただ、タオルの奥で肩だけが上下している。ユキがそっと頬の位置を探ろうとした、そのときだった。
「今、俺の顔、見ないでください」
低く、くぐもった声だった。ユキの手が、ぴたりと止まる。
「……わかった」
無理にタオルをめくらず、その上から、腫れていそうなあたりにそっと氷のうを添える。冷たさに、レンの肩がびくっと小さく揺れた。
「冷たい?」
「……別に」
そう言うわりに、声が少し掠れている。しばらく、氷の音とレンの呼吸だけが続いた。やがて、タオルの下から、ぽつりと声が落ちる。
「負けたとこ、先輩に見られるの、ほんと最悪なんで」
ユキは、氷のうを持ったまま少しだけ目を伏せた。
「……勝ったら、もっとマシな顔できたのに」
その言い方が、子どもみたいで、でも本気で、ユキの胸の奥が痛くなる。
「レン」
「見ないでくださいって言ったじゃないですか」
「見てないよ」
「……声が、近いんすよ」
拗ねたような、吐き捨てるような言い方。なのにどこか必死で、ユキは思わず少しだけ笑ってしまいそうになる。でも笑ったらだめだと思って、ぐっとこらえた。
「じゃあ、少しだけ離れようか」
そう言って、ほんの少しだけ距離を引く。レンの手が伸びて、ユキのジャージの裾をギュッと掴む。
「そこまでは言ってないです」
ユキは、ぱちぱちと瞬きをした。
「えっと……じゃあ、ここに居るね」
離れてほしいわけじゃない。けれど、見られたくはない。その面倒くさい感じが、レンらしくて、ユキは小さく息を吐いた。氷のうを当てたまま、静かに言う。
「今日のレン、すごかったよ」
タオルの下で、ぴくっと空気が張る。
「慰めいらないです」
「慰めじゃないよ。春のレンと、全然違った」
返事はない。でも、タオルの奥の呼吸が、少しだけゆっくりになる。
「前は殴りたい気持ちだけで前に出てる感じが強かったけど……今日は、勝ちたいって感じがした」
「……勝てなかったっすよ」
「うん」
「枠、一個じゃないですか。同じ階級にライ先輩がいる。……正直、重い」
最後のほうは、ほとんど独り言みたいだった。ユキは少しだけ氷のうの位置をずらしながら、静かに答える。
「重い相手に、ちゃんと重いって思いながら向かっていけるの、すごいよ」
レンは黙っている。
「あとね」
「……なんすか」
「ライのこと、ちゃんと怖いって分かってる殴り方になってた」
「それ、褒めてるんすか」
「褒めてる」
「変なの」
タオルの奥で、少しだけ笑った気配がした。ユキもつられて、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
「今日、けっこう……二人とも怖かった」
正直に言うと、レンの肩がぴくっと揺れた。
「ロープ際とか、ボディとか見て、こんな顔するんだって思ったし……ちょっと泣きそうだった」
「……じゃあ、やっぱ見てたじゃないですか」
「試合中は、ね」
「今は」
「見てないよ」
そう言って、ユキは氷のうを持つ手元だけを見た。ほんとうに、レンの顔は見ない。やがて、レンがタオルの下でくぐもった声をこぼした。
「……勝った顔で、先輩の前に立ちたかった」
あまりにもまっすぐな本音だった。ユキは一瞬だけ目を見開いて、それからすぐに、柔らかく息をついた。軽く扱いたくない言葉だった。
「ちゃんと、すごいって思われたかったし……ライ先輩より、って」
「うん」
ユキは否定しない。ただ、その悔しさがそこにあることを、そのまま受け取る。すると、レンがいきなりタオルを片手でぐしゃっとつかんだ。
「くっそ……!」
顔はまだ隠したまま、声だけが震える。
「勝てねぇ……! どんだけやっても、ロープ際まで追い詰めても……最後は持ってかれるし……!」
握った拳のバンテージが、みし、と鳴る。
「汚ぇやり方まで試して、それでも届かない感じ、マジで最悪なんで……!」
感情が一気にあふれた。ユキは、氷のうをいったん膝の上に置いて、その握りしめた拳を見つめる。
「でも、また挑むでしょ?」
レンが、ぴたりと黙る。
「……挑みますよ」
タオルの奥から返ってきた声は、さっきよりもずっと低く、静かだった。
「絶対、もう一回やる。来年も。今度はちゃんと倒す。……だから」
少し間があってから、レンが言った。
「勝ったら、ちゃんと俺のこと、褒めてくださいね」
ユキは目を細める。
「『よくできました』って?」
タオルの下で、レンが小さく息をのむ気配がした。
「……そうです。あの日と、逆で」
ユキは少しだけ笑った。でも声は、できるだけやわらかく、まっすぐにする。
「分かった。じゃあ、次はレンの番だね」
そう答えると、レンはしばらく何も言わなかった。ただ、ようやく少しだけ肩の力が抜けたのが分かった。数秒の沈黙の後、タオルの下でくぐもった声が落ちる。
「……先輩。次は顔、見せられるようにがんばりますんで」
泣いているのか、笑っているのか、よく分からない声だった。ユキは、ただうん、とだけ返して、もう一度そっと氷のうを頬に当てた。
◇◇◇
ロッカールームから戻ったユキに、ライが声をかける。
「ユキ、レンの様子どうだった?」
「落ち着いたところ。今、冷やしてる。もう少ししたら戻ってくるよ」
「ありがと……」
そこでライは少しだけ視線を落とす。
「怖かっただろ、俺」
自嘲するような笑い。スマートに後輩をいなすはずだった。なのに、ユキの名前を出された瞬間、理性のタガが外れた。
「後輩相手に、ぶん殴ることしか考えられなかった。レンの成長を喜ぶ余裕もない。……同じ枠で戦ってる相手に、できる気がしなかった」
その吐露は、ライが誰にも見せない、剥き出しの弱音だった。
「……ううん」ユキは首を振った。
「ライの本気の顔、ひさしぶり。かっこいいなって思ったよ」
予想外の言葉に、ライが顔を上げる。ユキはどこか誇らしげに、でも少し照れたように笑った。
「いつも完璧に見せようって我慢ばっかりして。でも、今日は素の顔だったでしょ」
ライは絶句し、それから深く、深くため息をついた。その無垢な肯定が、愛おしい。
「……俺のこと、そんなふうに見てんの、世界中でお前だけだぞ」
手をすっと上げて、ユキの髪を優しくかき回した。




