第三十七話 インターハイ予選前④(★)
ライの左フックが、レンのヘッドギアを大きく揺らした。ぐらりと大きくロープ側に流れるレンの身体に向かって、踏み込んで右ストレートを放つ。レンも、反射的に左を振り返す。
「ストップ!」
その瞬間、陸さんの声が、これまでで一番強い音で響いた。
同時に、身体ごとふたりの間に滑り込む。左右に開いた腕で、ライとレンの胸をそれぞれ押し分けた。
ライの右が、陸さんの肩にかすった。レンの左も、腕に当たる。
「くっ……!」
陸さんは歯を食いしばって、ふたりを押し離した。
「はい。おしまいです。ここで終わり」
はっきりした、でも穏やかな声。怒鳴らない。けれど、一切の続きは許さない声音だった。
ライは肩で息をしながらも、それ以上は前に出なかった。レンも、口の端から少し血を滲ませながら、数秒遅れてガードを下ろす。
体育館の空気が、一気に静まる。
「判定は……北条!」
顧問の声に、ぱらぱらと拍手が起こる。一番最初に手を叩いたのは、リング下のユキだった。
判定を告げた後、リングの外の顧問の膝は、わずかに笑っていた。
「……いや、あれ止めるとか俺無理だわ……」
本音がそのまま口からこぼれる。隣で腕を組んでいたアレセンが、ちらりと顧問を見る。
「そうっすか」
それだけ。淡々と、短く返す。
リングの中では、陸さんがふたりの肩を軽く叩いていた。
「ライ君もレン君も、お疲れさまでした。二人ともがんばりましたね。ここまでにしましょう」
ライはまだ荒い息のまま「はい」と答える。レンも、少しだけ視線を逸らしてから、こくんと頷いた。
リングを降りてきた陸さんに顧問が声をかける。
「陸さん、身体、痛くないか? 助かった……すまん」
「ふふ。こう見えて、耐久力だけはあるんですよ」
そう言って、自分の肩をぐるりと回す。さっき拳がかすったところが、じん、と重い。
リング上では、ライがゆっくりとグローブを差し出した。
「……ナイス。お前、根性ある」
それは、ライが自分にはあまりないと自覚しているものへの、正面からの評価だった。
レンは一瞬きょとんとして、それから血のにじむ口の端をニッと上げる。
「……倒しきれなかったっすね、ライ先輩」
皮肉みたいな言い方なのに、グローブを合わせる仕草は素直だった。少し間があって、レンはつけ足す。
「でも、次は絶対俺が出ますから」
言い方は静かだった。ただ、迷いがない。ライはしばらくレンの顔を見てから、短く答えた。
「来年も同じなら、また闘うことになるぞ」
「分かってますよ。だから言ってんすよ」
グローブを離してから、レンは目だけでライを見た。
「先輩が出られなくなるくらい、強くなって戻ってきますんで。覚悟しといてください」
ライの顔に、はっきりとした苦笑が浮かぶ。
「……上等」
リング周りの空気が、ようやく少しずつほどけていく。
顧問はまだ陸さんに礼を言っていて、アレセンはレンのほうをちらりと見てから、何も言わずに視線を外した。
◇◇◇
ライはグローブを外しながら、いつもの表情を保っていた。息は荒いが、姿勢は崩さない。誰が見ても、勝った側の顔だった。
「ライ、大丈夫?」
ユキが近づくと、ライはいつも通りみたいに軽く笑った。
「平気。ちょっと疲れただけ」
そう言って一歩踏み出した、その瞬間だった。
「……っ」
ほんのわずかに、ライの眉が寄る。空いた手が、無意識みたいに脇腹を押さえた。足元が少しだけ乱れて、身体が傾く。
「ライ!」
ユキが慌てて腕を取る。倒れるほどじゃない。でも、支えがなかったらもう一歩ぶん、よろけていた。
「……やば」
ライは小さく息を吐いて、困ったみたいに笑った。さっきまでリングで見せていた顔とは違う、年相応の少し情けない顔だった。
「ごめん。今の、見なかったことにして」
「いや、無理だよ。見たよ」
ユキが真顔で返すと、ライは一瞬だけ黙って、それから少しだけユキの肩に重さを預けた。
「……あいつのボディー、効いたこと、内緒にしといて」
声は低くて、少しだけ掠れている。ユキは目をぱちぱちさせてから、思わず小さく笑った。
「なにそれ」
「だって、悔しいだろ。後輩にやられたって、知られるの」
言いながらも、脇腹を押さえる手には力が入っている。ほんとうは、かなり痛いのだと分かる。
「……でも、効いたんだ」
「ちょっとだけ」
「ほんとに?」
「ちょっとじゃないかも」
そこでライは観念したみたいに息を吐いた。ユキに支えられたまま、額を少しだけこちらに寄せる。
「だから、内緒。せめてお前だけにしといて」
その言い方が妙に可愛くて、ユキの胸が、きゅっと鳴る。
「……うん。内緒にしとく」
「ありがと」
ライはそう言って笑ったけれど、その笑いの奥に、悔しさと、少しだけ誇らしいものが混じっていた。きっとそれは、レンの拳をちゃんと受けた相手だけが分かる重さだった。




