第三十二話 レンの回想
雨宮レンは、基本、眠い。
朝も、昼も。目の前に薄い膜が張ったみたいで、世界が少しだけ遠い。
リングの上だけが例外だった。頭が冴えて、身体が勝手に動く。相手が誰でも関係ない。殴れるだけ殴って、終わったらまた眠くなる。それで勝てたし、相手は黙った。
――それで、十分だった。なのに。
あの雨の日、ユキ先輩に当てた瞬間だけは、違った。
軽く。マス寄り。危なくないラインで。
そう決めていたのに、ヘッドギアが「ぱしん」と鳴って、先輩の首がほんの少し揺れた瞬間、胸の奥が変な音を立てた。
(……俺、当てた)
いつもなら、そこに何も残らない。スカッとした、気持ちいいとか、そういう単純な感覚が来て終わる。
でも先輩に、自分のグローブが触れたときだけは、息が詰まった。
嬉しい、とは違う。怖い、とも違う。
先輩が倒れて、泣き笑いをして、それでも誰かを安心させる目をしたとき――レンの中で、ひとつだけ決まってしまった。
(俺、この人を本気で殴れない)
図書室の前で、レンは立ち止まった。扉の向こうの静けさが、閉じたドア越しでも分かる気がした。
ドアノブに手をかける。冷たい金属。
……回せない。
リングなら簡単だ。身体が勝手に動くから。間違っても、言葉を選ばなくていいから。
でもこれは、自分で選ばないといけない。
ノブを回すだけなのに、グローブより重かった。レンは息を吐いて、ドアを開けた。
◇◇◇
高い棚の前で、図書委員のユキは本を戻そうとして、腕が止まっていた。肩が少し上がって、呼吸が浅い。
筋肉痛。雨の日の名残。
レンは後ろから何も言わずに近づいて、ひょい、と本を掴んだ。
「ここでいいっすか?」
ユキが振り向く。驚いた顔。すぐ、いつもの笑いを作りかけて――途中で止めた。
「……レン」
「台本板、入ってる。返却っすよね」
ユキは小さく頷いた。レンは書棚から台本板を抜き、代わりにユキの手から取り上げた本を入れる。
「ありがと……部活は?」
「朝、話せなかったから、ここなら居るかもって」
レンはそれだけ言って、紙袋を差し出す。中からジャージが覗いている。見慣れたAOTOの文字。
「いつでもいいのに」
ユキは笑って受け取る。雨の日が、また蘇る。
背後で咳払いがひとつ聞こえた。司書担当の先生が、こちらを見ている。
ユキは反射で会釈してから、言った。
「……ごめん。ちょっと場所移そっか」
相談コーナーへ向かう途中、ユキの歩幅は小さい。筋肉痛がはっきり分かる。
丸い机の前に向かい合って座る。レンは机の端を指先で押さえた。落ち着かない。
「で」
声が思ったより乾いた。
「ボクシング、続けられそうっすか」
ユキは一拍、黙った。その沈黙の間に、レンの心臓がうるさくなる。
「……わかんない。考え中」
当たり前の答えなのに、胸が痛んだ。
ユキは視線を落として、指を握る。
「怖かった。殴られたのも、倒れたのも……全部」
レンは頷けない。否定もできない。あれは自分がやったことだから。ユキが続けた。
「でも、怖いのに……もうちょっとって思ったのも、本当で」
レンの中の“殴るだけの男”が、すこしだけ後ろに下がった。代わりに前に出てきたのは、いちばん嫌いな感情――責任だった。
レンは息を吸って、言葉を選ぶ。
「じゃあ……次は、先輩のペースでやりましょう」
ユキが顔を上げた。
「俺は先輩の色んな顔が見たいんすけど。いったん置いといて。続けたいなら、続けられる形にしないと意味ないんで」
守る、とは言わない。それは自分には似合わない気がした。
ユキはしばらく黙って――小さく頷いた。
「……うん」
それから、言い直すみたいに、はっきり言った。
「続ける。もう少しだけ」
その言葉が、レンの胸の奥を刺した。刺さって、でも変に温かい。口から出たのは、軽い調子だった。
「約束。遅れたら、迎えに行きます」
ユキが苦笑した。今日のそれは、誤魔化しじゃない笑いだった。
レンは立ち上がった。照れ隠しのように、軽い口調で。
「じゃ」
扉の方へ一歩。振り返る。
「部活、行ってきます」
ユキは「うん」と頷いた。
その頷きが、リングのゴングよりずっと重くて、ずっと優しかった。
レンはドアノブに手をかける。今度は迷わず回した。
(本気で殴れない)
――先輩にだけは、いつものやり方が通らない。殴って勝って、相手が黙って、終わり。そういうレンの簡単な世界に、先輩は入ってこない。
あの雨の日。先輩が倒れたとき、胸の奥で何かがひっくり返った。
ライ先輩なら、線を引く。「ここまで」って決めて、守る。あの人はそういうふうに、最初から正しくできる。
でも自分は、たぶん違う。近づくな、じゃなくて――こっちに来いって思ってしまう。
自分なりの、別の形で近づくしかない。先輩が続けるって言うなら、続けられるようにする。息の整え方も、距離の取り方も、怖くなったときの逃げ道も。
全部、自分が覚えさせる。自分が、支える。それは優しさじゃない。うまく言えない、面倒くさい気持ちだ。
レンは廊下の先、体育館の方角を見た。
(守るんじゃなくて――力になる)
言葉にはしない。口にするのは気恥ずかしい。でも、消えない。
レンは歩き出した。眠気は、まだ遠いままだった。




