第三十話 ふたりのあいだで①
次の日は、日曜だった。ベッドで目を覚ました瞬間、ユキは「あ、無理」と悟った。
――動かない。
首から下、全部がひと続きの「いたい」になっている。横を向こうとしただけで、肩から背中に電流が走った。
「……っ、いっ……」
シーツを握りしめてしばらく天井を見つめる。
昨日のスパーが、身体のあちこちからタイムラグ付きで届いてきている感じだった。
(スパーって、全身でぶつかるんだなぁ……)
感慨と後悔と、ちょっとだけ誇らしさが半々で浮かんでくる。
階下からは、テレビの音と、フライパンのじゅうじゅういう音。
いつもの日曜の朝の気配。そのうち、玄関のチャイムが鳴った。しばらくして、廊下越しに母親の声が響く。
「あら、ライ君?いらっしゃい。ユキ、起きてるには起きてるけどねぇ」
(……ライ?)
幼なじみの名前を聞いた瞬間、さっきまで鉛みたいだった心臓だけがびくっと動いた。
「おはようございます。昨日スパーしたんで、筋肉痛ひどいかなと思って。様子見に来ました」
ライの声だ。聞き慣れた、落ち着いた声。
「ほんとにねぇ。あの子がボクシングだなんて、びっくりしちゃって」
母の声は、少し笑っている。
「無理はさせませんから。僕も、そこはちゃんと見てます」
廊下でそんな会話が続いている。
(……うわぁ……)
恥ずかしさと安心がいっぺんに押し寄せてきて、枕に顔をうずめたくなる。でも、顔をうずめるにも首が痛い。
コン、コン、と部屋のドアがノックされた。
「ユキ、入るぞ」
「……どうぞ」
返事をすると、そっとドアが開く。
普段着のライが顔を出した。手にはコンビニの袋と、スポーツドリンクのペットボトル。
「よ」
部屋に一歩入ってきて、ベッドのユキを見て、苦笑する。
「想像してたより、ゾンビだな」
「……動くたびにレベル上がるんだよ、痛みが……」
ギシ、とベッドが鳴る。ユキがちょっとだけ上体を起こそうとして、途中で固まった。
「起きなくていいから。寝てろ」
ライはため息をついて、ベッドの近くまで来ると、当然のように手を伸ばした。
ユキの前髪をあげて、おでこに掌を当てる。
「熱は?」
おでこにひんやりした手のひらが乗る。距離が近い。息がかかる。
数秒、そのままじっとしてから、ライは手を離した。
「熱は……微妙に高いけど、筋肉痛と合わせ技かな」
その後、スパーで傷ついた口元を指先でゆっくりなぞる。昨日のレンの唇の感触が蘇ってユキは目をそらす。
「な、なに」
「ん? 痛かっただろうなと思って」
ライは、それ以上深くは聞いてこなかった。コンビニの袋をポン、と机の上に置く。
「差し入れ。水分と栄養、食べられそうなタイミングで、ちょっとずつ」
「……ありがとう」
ユキが視線を落とすと、ライはベッドの端に腰を下ろした。スプリングがきしんで、ユキの体が少し揺れる。
「いった……」
「だから言ったのに」
呆れたように言いながら、ライは自分のリュックから教科書を取り出した。
「ちょっとここで勉強してるから、なんかあったら呼んで」
「えっ、帰らないの?」
「帰らないよ。様子見に来たって言ったろ」
当然みたいな顔。ローテーブルに教科書とノートを広げながら、ライはさらりと言う。
「寝ててもいいし、起きててもいいけど。具合悪くなったり、頭痛くなったりしたら、ちゃんと呼べよ」
そう言って、ライは椅子代わりのクッションに座って、ペンを走らせ始めた。ぺージをめくる音が、部屋の中に静かに落ちる。
ユキは、ベッドにもたれたまま、その背中をぼんやりと眺めた。
(……なんか、変だな)
守られている構図は、子どもの頃からずっと変わってない。昨日も、今日も。
自分が強くなりたいと思ってリングに上がっても、こうして日曜日に部屋でお世話されている。
それでも。胸のどこかが、少しだけあたたかい。
「……ライ」
「ん?」
ペンを走らせたまま、顔だけこちらに向ける。
「来てくれて、ありがと」
ライは一瞬だけ目を丸くして、それから照れ隠しみたいにひとつ咳払いをする。
「当たり前だろ。お前の、はじめての次の日に来ないほうが、どうかしてる」
「なんか、その言い方やめて……」
「別に変な意味じゃねぇよ」
くくっと笑ってから、またノートに視線を落とす。
「痛いとこ、ちゃんと言えよ。大げさなくらいでいいから。……言わないと、余計に心配すんだよ」
その声が、ほんの少しだけ震えているのに気づいて、ユキは「うん」と素直に頷いた。
静かな日曜の午前中。ページをめくる音と、外の鳥の声と、ときどきベッドがギシ、と鳴る音だけが部屋の中に溶けていった。




