第二十九話(★)雨の日⑤
ロッカールームは、体育館よりひんやりしていた。
ベンチに腰をおろしたところで、ユキは大きくため息をついた。
「…………はぁ」
天井を見上げる。さっきまでの光景が、まだ頭の中に残っている。
(当たんなかったなぁ……)
拳も、足も、全部重い。みぞおちのあたりはまだ、ちくちく痛む。なにより、胸の中がぐしゃぐしゃだ。
悔しい。情けない。でも、少しだけスッとしたところもある。
(ちゃんと怖かったし、ちゃんと痛かったし……)
そこまで考えて、またため息が出た。
「……はぁ」
「ため息、二回目」
不意に声がして、ユキはびくっとする。
入り口に、スラっとした人影がひとつ。
「レン……?」
さっきのスパーから時間もたっているはずなのに、レンの表情はまだリング上の顔のまま、少しだけ真剣だった。
「入っていいっすか」
「う、うん」
頼んでないのに、ユキはベンチの端っこに詰めて座り直す。レンは「別に詰めなくても」と思いながらも、何も言わず隣に腰を下ろした。
しばらく、二人で無言。時計の音だけが、カチ、カチと刻んでいる。
レンが先に口を開いた。
「……怖かった?」
唐突な問い。ユキは、少しだけ考えてから、こくりとうなずいた。
「悔しかった?」
「……うん」
自分の拳が当たらないこと。避けられてばっかりなこと。最後、勝手にすべって尻もちついたこと。
「情けなかった?」
「……それも、ある」
言っていて、自分でもおかしくなってくる。
「ぜんぶ、だね」
小さな声で言うと、レンは「あー」と天井を見上げた。
「やっぱ、そうすよね」
それから、少し間をおいて。
「……俺のこと、嫌いになりました?」
ぽつん、と落とされた言葉に、ユキは目を瞬いた。
「だって、殴ったし。当てさせなかったし。最後、転ばせたし」
指折り数えられて、ユキはちょっと困った顔になる。レンは、視線を外したまま続けた。
「結構、意地悪なことした自覚はあるんで。もう無理ってところまで続けさせたし」
「……」
「だから、まあ……雨宮のせいで嫌な思いしたって思われても、しょうがないかなーとは」
言葉とは裏腹に、声の奥は少し硬い。ユキは、しばらくレンの横顔を見つめていた。それから、首をかしげる。
「なんで、俺がレンのこと嫌いになるの?」
心底、不思議そうな顔だった。
「だって……」
ユキは、膝の上で手をぎゅっと握る。
「怖かったけど、リング上がるの、待ってくれたのレンだし。最初、殴る練習したのも、レンで」
自分で言いながら、頬が少し熱くなる。
「今日、スパーしようって言ったの、俺だよ?」
「それは、まぁ……」
「怖いのも、悔しいのも、情けないのも……レンとやったから、ちゃんと分かった気がするし」
ユキは、うつむきながら笑った。
「……嫌いになる理由、あんまり思いつかないんだけど」
レンは、ぽかんとした。
「……マジっすか」
「マジだよ」
「さっき、ボディで膝ついたのに?」
「痛かったよ」
即答だった。
「でも、ちゃんとボクシングの痛さって感じがしたから」
「変なこと言いますね」
「レンが本気で殴りたいわけじゃないのは、分かるから」
さらっと言われて、レンは言葉に詰まる。胸の奥のどこか、図星を突かれてほしくないところを、指でちょん、と押された感覚。
「……そういうとこなんだよなぁ」
力が抜けたみたいに、レンはへなへなとベンチにもたれた。天井を見上げたまま、片手で目元を押さえる。
「怖かった、悔しかった、情けなかったって、ちゃんと言うくせに。嫌いになる理由思いつかないとか、平気で言うとこ」
「だって、本当に思いつかないから……」
レンは、ぐしゃぐしゃっと自分の髪をかいた。
「だから、そういうとこなんすよ。もうちょい俺のこと恨んでくれていいんですけどね」
「恨まないよ」
「ですよねぇ……」
投げやりなようでいて、どこか安心した声。静かなロッカールームに、二人のため息が並んで落ちた。
「レンはさ」
ユキが、不意に口を開く。
「俺のこと、嫌い?」
「は?」
今度はレンが盛大に素っ頓狂な声を出した。
「なんでそこでそうなるんすか」
「だって、さっき、意地悪なことしたって言ってたし……」
「それとこれとは別っすよ」
少しだけ間をおいて、ぽつりと付け足す。
「……むしろ逆寄りですよ」
「ぎゃく?」
「なんでもないです」
レンは立ち上がりかけて、ふと動きをとめた。
「……じゃ、今日のこと」
ユキのほうを振り返る。さっきまでより、ほんの少しだけ真面目な顔。
「うまくいかなかったって思ってもいいですけど」
一拍置いて、目を細める。
「俺は、先輩とここまで来れた日ってことにしときます」
そう言って、ベンチに座ったままのユキの前に一歩近づいた。
ユキがきょとんと目を上げる。その視線を受け止めながら、レンはゆっくりしゃがみ込んだ。
拳が当たった頬はうっすら赤い。切れた下くちびる。さっきまで血がにじんでいた場所に、まだ赤みが残っている。
「ちょ、レン……?」
呼ぶ声より早く、レンの手がそっとユキの顎に触れた。
ぐい、とでもなく、本当に軽く。逃げられる余地を残したまま、角度だけを決めるみたいに。
そのまま——
自分のくちびるを、そっと重ねた。ほんの一瞬。触れたか触れないか、くらいの短さ。
あたたかさと、かすかな鉄っぽさ。切り傷の上を、ほんの少しだけなぞる。ユキの身体が、びくっとこわばる。
すぐに離れて、レンは指先で自分の唇をぬぐった。
「……っ、な、なにして……」
ユキの顔が一気に真っ赤になる。くちびるの痛みか、恥ずかしさか、自分でも判別がつかない。レンは、へらっと笑った。
「先輩のこと、揺らしたいんすけど」
くちびるに触れた感触を、確かめるみたいに言葉を転がす。
「ぜんっぜん、効いてねぇなぁ」
「き、効いてるよ!」
反射で声が裏返った。耳まで真っ赤にして抗議するユキを見て、レンは「ですよね」と小さく笑う。
「じゃ、今日はこれでガマンしときます」
立ち上がって、ドアのほうへ歩き出す。
ロッカールームにひとり残されたユキは、さっきよりずっと早くなった心臓の音を聞きながら、ゆっくりと自分のくちびるに触れた。
「……効いてるよ」
さっきと同じ言葉なのに、今度は少しだけ、甘さの混じった声になっていた。




