11 名前を呼んで
ユオが婚約破棄に向けて動いてくれることで、アリィは安心して一日を過ごした。
部屋でネグリジェに着替えると、交換日記を開く。
いつもはその日の部分から開くのだが、今夜は最初から読み返したい気分になったのだ。
(ユオシェム様は、ずっと私のことを待っていてくれたのね)
カナンの宮殿での出会い、谷底の村、ヨグトスとの遭遇。
ララネとの出会い、シノとの再会、エレンとの合流――たった一ヶ月ほどの間に、たくさんの出来事があった。
その度に、ユオは毎晩、アリィを気遣うような文を書いてくれていたのだ。
細い指でページを捲る。
最初の日から今まで、愛しくない日がなくて。
そして、最も新しいページに辿り着いた。
今日の部分だ。
やけに長い文章になっていて、アリィは戸惑いながら読み進める。
最初はただ、いつものように出来事を書いているだけ。
それが途中から、日記というより手紙になっていたのである。
『シノのことは僕に任せて。安心していいよ。だから……明日の夜、デートに誘ってもいいかな』
そのたった一文を理解するのに、数分はかかったくらいだ。
夢でも見ているのかと思い、何度も部屋を行き来しては同じ一文を読み――と、アリィは繰り返した。
『ちゃんと伝えられてなかったから、今こそ伝えておきたいことがある』
読んでいるうちに、いつも楽しそうにしているユオの顔が浮かんでくる。
だが、今日ばかりは切実な気持ちで書いたのだろうと、伝わってきた。
(伝えないといけないのは、私の方なのに……)
それでも、彼はいつもそうやってアリィを尊重していた。
お互いのことが、尊く思えていたのだろうか。
アリィは恋文とも言えるそれを、最後まで読んだ。
一息おいて、頬をつねった。
それでも、夢でないという証明にはならない気がして。
西方風のパーティーは、出鶴でも文化として取り入れられているものだ。
もはや世界中の社交は、そういったものになってきている。
そんなパーティーの場で、いつか素敵な人と踊りたい。
踊りはあまり得意ではないけれど、きっとそれすら許してくれる人を――ずっと夢見ていたのだ。
『嬉しいわ。一晩だけ、考えさせてくれる? 明日の朝、貴方の愛称を呼んだら、それが了承の合図だと思って』
アリィはそれだけ書いて、トランに渡した。
他には何も浮かばなかった。
本当ならすぐにでも了承したいけれど。
もしこれが夢だったら、ひどく落胆しそうで――。
(それに……ユオシェム様のことを、愛称で呼んでみたかったから)
目が覚めて現実だと確信したら、改めて返事をしよう――そう思い、トランを抱き締めてベッドに転がった。
☾
ユオからの突然の恋文に、アリィはほぼ眠れずに過ごした。
(思えば、お父様とお母様も、恋文から始まったと言っていたわ)
当時まだ王太子だった父は、遠縁の母に一目惚れしたと言う。
承諾されるだろうと自信を持って恋文を送ったが、母はそれを一度は保留にしたらしい。
(お母様も、同じ気持ちだったのかしらね)
駆け引きのつもりは全くなかったが、ようやく母の気持ちが分かったような気がした。
出鶴ではふたつ返事での了解は、軽い女と見られてしまう。
一度は保留にするのが作法なのだ。
隣でお腹を見せて寝るトランを撫でながら、そんなことを思い出す。
朝一番にノックしてくるのは、ララネだった。
部屋に入ってきた彼女は、アリィの顔を見てぎょっとする。
「アリィ! 眠れなかったのですね? しかも、大事なお顔が赤くなっています!」
頬は何度かつねったので、少し赤くなっていたのだ。
(ララァに言いたいけれど……どこまで言っていいものなのか悩むわ。だってまだ、ユオシェム様に答えを返していないから)
色々と考えた上で、アリィは少しずつ現実に戻ってくる。
想いを告げられたのも、返事を保留にしたのも、全て夢ではなかった。
そう知れば胸がいっぱいになり、顔が真っ赤になってくる。
「あら、顔が赤いです! 熱でもあるのでは!?」
ララネはアリィの顔を見て取り乱すと、額と額をくっつけた。
「ち、違うの! 嬉しいことがあって、夢じゃなかったから、少し恥ずかしくなっただけ……」
慌ててアリィはそれを引き止め、ララネの手を優しく掴む。
そうすると彼女も落ち着いたようで、ようやく二人はまともに話ができるようになるのだった。
「それで、何があったんですか?」
ララネはベッドに腰掛け、アリィを見つめる。
彼女の方もわくわくとしており、上機嫌になっていた。
「デートのお誘いがあったの。ユオシェム様からよ」
今は何気ないところで彼の名前を呼ぶことすら、少し恥ずかしい気がしてくる。
「えっ、よかったですね!」
友達の幸せを、ララネは自分のことのように喜ぶ。
ようやくデートなのかと、突っ込みたくなるのは抑えながら。
「ありがとう。私が出鶴の王女だからなのか、文で書いてくれたのも嬉しかったの」
「アリィに配慮したんですよ、きっと」
はしゃぐララネは、本人よりも嬉しそうだ。
アリィもまた、彼女が幸せならいいのにと願う。
「東雲丸さんの婚約破棄も、ユオシェム兄様なら何とかするでしょうし。アリィは幸せいっぱいですね」
「ララァも幸せになりましょう?」
「えぇ。アリィを見ていたら、本当に恋がしたくなってきますから」
朝から女の子同士ではしゃぎ、会話に花を咲かせていた。
☾
着替えて、朝食の席に向かう。
そこで昨晩以来、アリィはユオと初めて顔を合わせることになった。
文字での対話をしていたからか、まるで先程まで近くで話していた気分になる。
「おはよう……ユオ」
アリィはドキドキしながらも落ち着いて、とびきりの笑顔を向けた。
ユオもそれが嬉しかったのか――微笑み返して、アリィにゆっくりと歩み寄る。
「おはよう。アリィって、呼んでもいいかな」
少しぎこちなくも、いつもどおりの対応だった。
それでも、アリィの返事はあの後すぐに読んだのだろう。
彼はトランに預けたものを、別のところにいても自由に取り出せるからだ。
そう思うと、アリィは顔が赤くなってくる。
「うん……やっと名前を呼んでくれたわね」
少しだけ頬をぷくりと膨らませた。
今までは名前も呼んでもらえていなかったから。
「この日まで待ってたんだ。本当は、ずっと呼びたくて仕方なかった」
そう言って微笑むユオを見てしまったら、アリィもそれ以上は文句を言う気になれなくなる。
目を細め、ただ幸せに身を委ねた。
(おーい、姫様! マジでそいつでいいんですかー?)
エレンは邪魔こそしなかったが、心の声ではユオをディスっていた。
(アリィは……幸せそうだな)
一方、シノは幸せそうに笑う妹の姿を見て嬉しくなる反面、切なさも感じる。
六年の空白は、妹の成長を忘れさせていた。
シノにとってはまだ十二歳くらいの感覚だったのに、知らない間に十八歳になったかのように。
その寂しさこそが、彼女を閉じ込め、虐待に気付けなかった罰なのだと――兄として、受け入れるしかなかった。
同時に、妹が本当の意味で巣立つのを感じ、束縛されていた責任感を手放せる。
これからは多少何かあったとしても、アリィに災いは降り掛からないだろう。
兄は妹を親友に託し、ひたすらに幸せを祈った。
☾
白夜祭までは、まだ日が長い。
王太子がいなければ、宝探しを続行できない。
彼は白夜祭の準備で忙しく、一行はそれが終わるまで待つ形となっている。
ユオはスヴェア伯爵としての活動に勤しんでおり、日中は姿を眩ませていた。
アリィとララネはシノに色々と習い、見識を深める。
二人とも教養はあるが、今の情勢や実務についてはまだ少し疎いのだ。
勉強が終わって、兄妹とララネは雑談をしながら王城の廊下を歩く。
「東雲丸さんって、恋人はいなかったんですか?」
「必要なかったのと、女性が苦手だからな」
「そうなんですか? だから私に冷たかったんです?」
「いや、君のことは最初から嫌いではないが」
ララネの問いに、シノは全て正直な気持ちを答えた。
(それ、女性として見てないってことですか?)
彼の前で醜態を晒しているララネは、そういう風に自認する。
(お兄様が嫌じゃないなんて、珍しいわね)
アリィは微笑ましげに二人を見守った。
三人で歩いていると、エレンやその兄と出会う。
ジナビアの王子や王女は、彼や王太子を含めて六人いるそうだ。
「フィン・ド・ジナビアでございます」
エレンの兄は挨拶を一瞬だけ交わし、漏れなくアリィに見とれてしまう。
エレンにはあまり似ておらず、王妃に似た優しそうな人だった。
「惚れただけで嫌がらせされるから、やめた方がいいぜ」
「ほ、惚れてないって。美人に見とれただけだ」
「見とれるのもヤバいって!」
そう弟に耳打ちされると、第四王子のフィンは青ざめていた。
ユオはこの王城でも、かなり影響力があるようだ。
「真剣そうに話していたが……何かあったのか?」
シノがエレンに問いかける。
「それがさ、スヴェア伯爵とユオが同一人物って情報を解禁しただろ。それからすぐに、世界政府の幹部が来るって連絡があったらしい。しかも、白夜祭の日にな」
「想定内だな。白夜祭に来るというのも、何か思惑がありそうだが」
「だろ。父上やラーシュ兄上たちは、ユオと一緒に色々と考えてるみたいだけど。俺やフィン兄上は蚊帳の外なんだよなー」
エレンはため息をついて、兄のフィンと顔を見合わせる。
「つーか、ジナビアの心配もありがたいけどさ……シノ、もうお前の婚約者が暴走してるみたいだぜ」
懐からくしゃくしゃの手紙を出したエレンは、呆れた顔でそれをシノに見せた。
中には目が滑るような丸い文字で、シノとの婚約が決まったことが書いてあった。
しまいにはエレンに『エレン様と一度会いたいです! その時はお友達も連れてっていいですか?』と媚びている。
こちらに呼び付ける算段だったが、入れ違いで来た手紙のようだ。
婚約の挨拶状という名目で、多方面に送っているのが見て取れる。
(本当に下品な人だわ。お兄様にふさわしくない……)
横で手紙を見たアリィも、怒りを通り越して呆れるほどだった。
身内贔屓かも知れないが、兄は見目麗しく優秀だ。
少し会話は苦手だから、そこを補える賢い女性でないと見合わない。
(こんなのに執着されていたなら、東雲丸さんが女性嫌いになるのも分かるかも知れません……)
ララネもそれには腑に落ちるしかなかった。
「王族相手に出す手紙じゃないな。許可を得てエレンと呼んでいるわけでもなさそうだ。」
読んでいて気分が悪くなりつつ、シノはエレンにそれを返した。
「許すどころか、会ったことも話したこともないぜ。蘇我穂垂って名前で……本当に公爵令嬢なのか?」
エレンも穂垂という人物の話は聞いていたが、掘り下げるほどに変な話しか聞かないので戦慄していた。
隣にいるフィンも苦笑いしている。
「蘇我公爵が若い娼婦を連れてきて、その連れ子を養子にした……それが、お兄様の婚約者になった人なの」
アリィは嫌になりながらも、子どもの頃に令嬢たちと対峙したことを思い出す。
「蘇我公爵は少し前に亡くなり、今はその娼婦が公爵家の当主となっている。ここ数十年、そういう乗っ取られた貴族家が増えてきている」
「ジナビアでは家督を継ぐのに、ある程度の魔力量や学力が必要だけどな。貴族との養子縁組も、一定の魔力量か学力水準がないと認められないんだ」
「出鶴はその辺りの規制がかなり緩い。戦後に世界政府が法整備に関わったからな。乗っ取りやすいようにしているんだろう」
「それで、娼婦の娘が公爵令嬢なのか」
エレンは眉を顰める。
手紙を捨てようか迷いながらも、くしゃくしゃにしてポケットに入れた。
彼もまた見た目に反して堅いところがあるので、そういう女は苦手なのだ。
「下手すれば国際問題でしょう。これは婚約解消の口実にならないの?」
アリィは願望半分にそう問いかけるが、シノは首を横に振る。
「それでも、王家側からは無理だ」
条件があまりに厳しすぎるのだ。
「うわ……フィン兄上、よかったな。俺たちに結婚は強制じゃなくて」
「もはや結婚なんかしたくないや……」
エレンとその兄は未婚なのもあり、シノの話を聞いて青ざめる。
結婚への夢なんて、消え去ってしまうくらいのインパクトだった。
「何であれ、俺らは普通に過ごすしかないよな。宝探しも、ラーシュ兄上が落ち着かないと無理だし」
ため息をついて、エレンは腕を組む。
「た、姫様! くれぐれも、ユオには変なことされないように気を付けてくださいね? あいつ、変態だから!」
エレンはアリィを半ば妹のように心配し、ついでに毒づくように忠告していた。
「分かったわ、忠告ありがとう」
いつものことだと、アリィは笑って流す。
ユオがそんなことをしないのは、エレンも実は分かっているのを知っていたのだ。
兄妹とララネが去った後――エレンの服は、後ろから引っ張られた。
「ねぇ、誰が変態なんだい?」
気配もなく突然やってきたものだから、エレンとフィンは驚いて大声で叫ぶ。
「うわ! いつからいたんだよ、変態!」
「ユオ、急に現れるのはやめろ!」
兄弟が叫ぶ中、ユオはいつの間にかエレンのポケットからくしゃくしゃの手紙を抜いて読んでいた。
「ふーん……話には聞いてたけど、アリィの親族にするわけにはいかないね」
手紙を読むと、ユオはそれをビリビリに破いて窓の外に放り投げた。
「おい、他人の手紙に何してんだよ。まぁ、いらねぇけどさ。まさか、殺すんじゃないだろうな?」
「正攻法で陥れる方が得じゃん。殺しはしないよ」
ユオはずっと前から、極東の島国のことを気にしていた。
幼馴染みのエレンはよく知っている。
ジナビアと出鶴に盛んな交流はないが、どうにも出鶴が損をしないように働きかけることが多かったのだ。
(よく分かんねぇけど、こいつはずっと姫様のために動いてたんだろうな……一目惚れでもしたのか?)
今になり、エレンはそれが全てアリィのためだったのだと腑に落ちるのだった。




