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10 兄の病

 その夜、アリィは兄の突然の婚約話に、少し憂鬱な気分でいた。


 神代文字が読めるアリィには、シノの婚約者が誰なのかも分かったのだ。


(あんな人が家族になるなんて、嫌だわ。お兄様には幸せになってもらいたいのに……)


 それはかつて、祖国でアリィに嫌がらせをしていた令嬢。


 喜代古たちと結託してこともあって、家族にすら話せていない。


(ユオシェム様に会いたい。だけど……)


 大好きになった人のことを考える。


 会いに行く気になれなかったのは、兄の不幸が見えてしまったから。


 代わりに、日記に本心を綴った。


『お兄様を助けてあげたいの……何もできないのがもどかしいわ』


 悲痛な妹の叫びは、少し時間を空けてユオのもとに届くのだった。



 ☾



 翌日、アリィは朝一番にシノのもとに向かった。


「アリィか」


 たった一晩でげっそりとしてしまったような彼に、アリィは心配になって抱きついた。


「お兄様、大丈夫? 具合が悪そうだわ……!」


 背伸びして頬に触れる。


 冷たくて、明らかに血色が悪い。


「話しておきたいことがある」


 シノは静かに言うと、部屋にアリィを招き入れた。


 いつも綺麗に結んでいる三つ編みも、今日は低い位置で束ねているだけだ。


 それでもきっちりとしていて、部屋にはゴミ一つ散らかっていない。



 シノはアリィを椅子に座らせ、円いテーブルの向かい側に腰かけた。


「両親も今は健在だが、今回のように世界政府がどう強硬手段に出てくるかは分からない。王族不要論を扇動し、行き着く先は……王族に何らかの罪を着せての、処刑だと思っている」


 シノは自分も終わりが近いかのように、アリィを諭すように言った。


「やっぱり、そんな流れになってしまうのね」


 薄々は分かっていたことだ。


 考えないようにしていたが、思い返せば、その兆候はたくさんあった。


「アリィ、その時はユオと正式に籍を入れるんだ。ジナビアの国王陛下が立ち会ってくれるはずだからな」


 自分の身に何かある前に、シノはそれだけ言っておきたかったのだ。


「どうして……?」


 ぐっと小さな拳を握るが、アリィはできることが少ない自覚は大いにあった。


「俺は王太子だが、アリィは違う。自分の幸せを優先しろ。カナンの皇子と結婚すれば、王女としての責務は果たしたことになる」


 シノの覚悟は決まっていた。


 国中の魔力供給を担う王が消えた時点で、出鶴の崩壊は始まってしまう。


 民衆はそんなことも気にしていないし、新たな技術に手を出せばいいとすら思っているのだ。


 そんな人々のために、アリィには命を懸けて欲しくはないと――頑なに国を守ろうとしているシノですら、私人としてはそういう思いだった。


「お兄様、だからといって諦められないわ。全ての神秘の器(アルカナ)を覚醒させれば、きっと民の心も変わる筈だから。知っているんでしょう、私が女神の転生者だって」


 アリィは自分が女神だということを、まだシノにも言えていなかった。


 確認するように言い、諦観した兄を真っ直ぐに見る。


 彼は驚きもせず、真っ直ぐに妹を見つめ返した。


「そうだな。母上は自分の娘が女神の転生者だと知っていた。自らが女神の転生者だと名乗り、世界政府を騙してきたんだ」


 王妃は結婚前に、我こそが女神の転生者だと触れ回っていたようだ。


 公式記録に残っているものではなくとも、喜代古が散々言っていた。


 母がスケープゴートになっていたのは、ユオから聞いて分かっていたのだが。


「お母様は、最初から知っていたのね……」


「あぁ。君が覚醒したことも、ユオから聞いた。喜ばしいことだ」


「それなら、まだ希望はあるわ!」


「女神が現れたとて、出鶴が崩壊しない保証はない。ギリギリまで戦うが……俺も病気の可能性があるので、万が一の時のことを伝えておこうかと思ってな」


 シノは静かに、自分の体調不良を告げる。


 ある意味、これが本題だった。


(病気って、どういうこと……?)


 アリィは頭が真っ白になり、しばらく何も言えなくなってしまう。


 シノの体調不良は、自己診断で心臓病ではないのだが――。


「エレンディルに言って、お医者様を呼んでもらうわ!」


 アリィは動揺しすぎて、詳細な症状を聞かないままに立ち上がる。


 婚約者のことに病気まで、兄は不幸すぎる。


「今からか?」


「えぇ、そうよ。早期発見が大事だもの!」


 せめて医者には罹ってもらおうと――涙をこらえて部屋を飛び出して行った。



 エレンの部屋は客室とは離れていて、客人が入ることは基本的に叶わない。


 外を歩いていた使用人に頼み、シノの部屋の前に呼んでもらうことにした。


 しばらくして彼が慌ててやってくると、アリィは駆け寄る。


「エレンディル……お兄様がね、病気かもしれないの。お医者様を呼んでくれないかしら」


 素直に兄の話を受け入れたアリィは、口に出すと思わず泣いてしまった。


 エレンは泣いている女性を目にして戸惑う。


 まして友人が死にかけているという話も、にわかに信じられない。


 ひとまず、慌ててハンカチを差し出した。


「えっ? わ、分かりました! 呼んでくるんで、シノの部屋で待っててください!」


 よく分からないが、アリィの不安は解消しなければならない――エレンはまた謎の使命感に駆られ、王室医師のところに向う。



 その間、アリィはシノの部屋に戻り、ベッドに寝るよう促した。


 兄の前では気丈に振る舞い、医者が来るまで話をする。


「お兄様、どういう病気かも知れないの?」


 布団を被せてやりながら、恐る恐るアリィは聞いた。


「心臓病の恐れがある。少し前から、動悸と胸部痛に襲われるようになったんだ」


「少し前って?」


「〈千夜の陵墓〉で再会した頃からだ」


「その頃から我慢されていたのね……」


 シノは心配するアリィの頭を撫で、落ち着かせようとする。


(正確にはララネ姫に会ったり話したりしてからだが、昨日は彼女のことも関係なく症状が出た。名前を出すと迷惑になりそうだから、やめておこう)


 ララネのことをあえて言わなかったのは、あらぬことで糾弾されてはならないと感じたからだ。


 アリィはそんなことをする子ではないと、兄は分かっている。


 ただ何かの拍子に漏れた時に、誰かが言い掛かりをつけて彼女を攻撃するかも知れない。



 ツッコミ不在の兄妹コントが続く中、詳しい状況を知らないエレンが王宮侍医を連れてやってきた。


 アリィが迎え入れると、若い男の医者は彼女に一瞬だけ見惚れてしまう。


「エレンディル、ありがとう。お医者様、よろしくお願いしますね。どうにも、心臓病かも知れなくて」


 泣くのを我慢して、アリィは医者のためにベッドの側に置いた椅子に案内する。


「心臓病って、まだ俺と同い年なのに!? シノ、お前も色々と災難ばっかだな……」


 エレンに医療的な知識は皆無なので、その方面に詳しいシノが自認しているなら、と信じてしまう。



 医者の診察が始まり、アリィとエレンは固唾を飲んで見守った。


 魔法道具(アーティファクト)を用いた検査で、魔力の流れなどで体内の異常を確認していく。


(心臓病どころか、健康そのものなんですが……単にストレスでは?)


 王宮に仕えるレベルの医者だ。


 診察してすぐに、異常はないことを確信する。


「失礼ですが、王太子殿下。その動悸や胸部痛が起こるきっかけに、心当たりはございませんでしたか?」


 それでも相手は異国の王太子なので、機嫌を損ねたら首が飛ぶ可能性もある。


 恐る恐る医者は問いかけた。


「昨日、自分の婚約の話を知った時から酷くなった。それだけならストレス性のものかも知れないが、少し前にある女性に出会ったのがきっかけだった」


 ララネの名前はあえて出さず、シノは答えた。


(あ、これ絶対ララネさんのことだ)


 これだけでエレンは察し、医者を呼んできたことを後悔する。


「は、はぁ……なるほど……」


 医者はずり落ちた眼鏡を持ち上げ、間抜けな声を出した。


 エレンに助けを求めるような視線を送る。


「その女性に、変なものをもらって食べたのかしら」


 そんな医者の気も知らず――アリィはそれがララネだと思ってもいないので、一人で真剣に考察した。


「いや、それはない」


「でも、分からないじゃない。お兄様は女の人に好かれるのよ。知らずに食べたのかも知れないわ」


「変なものを贈る人じゃない」


「じゃあ、どうしてその人に会ってからおかしいの?」


「それが分からないんだ」


「少しは疑わないとダメよ!」


 アリィは心配ゆえに声を荒げ、泣きそうになりながら兄から情報を引き出そうとする。


 しかし、シノの方は頑なにララネの名前を出さなかった。


 医者は帰りたそうな顔をする。


「姫様、シノは毒の耐性があるはずなんで……」


 助け舟として、エレンがそう言った。


 どんな言葉なら落ち着くかと迷いながら。


 アリィは一瞬だけ彼を見上げた後に、またシノを見た。


「毒の耐性をつけてたなんて、ずっと体に負担をかけていたのね……でもね、お兄様。女のことは女がわかるのよ。ララァにも話して、犯人の女性を見つけるわ。お兄様が言いにくい相手なのだろうから……」


 エレンの機転が、かえってアリィの涙を誘ってしまう。


 背負わせてしまったことを思い、ベッドの上に座る兄に抱きついた。


「待て。何故ララネ姫と共有するんだ?」


 無意識にアリィはララネの名前を出したため、シノは動揺した。


 けれども表情には出ない。


「わ、私の所見では……殿下の症状は精神状態の悪化による一過性のものかと。どう見ても健康な方です」


 医者はそれしか言うことはなく、慌てて道具を鞄にしまった。


 アリィは目をぱちぱちと瞬きさせる。


「そうか」


 安堵したからか、シノも顔色は良くなってきていた。


 アリィは医者のお陰なのだと感じ、潤んだ瞳で見上げる。


「よかった……お医者様、ありがとうございます!」


「い、いえ……」


 医者はアリィの労いの言葉だけで、その日の報酬をもらったような気すらするのだった。


「なるほどな。自分が思うよりも、精神的に打撃があったのか。王宮侍医の所見なら間違いないだろう。遣わせて悪かった、これは個人的な報酬だ。感謝する」


 シノは出鶴の通貨である、純金の大判を渡す。


 信用の高い通貨であり、医者は逆に礼を言って快く部屋から出ていった。


 そして――兄妹と共に残されたエレンは、全ての状況を把握する。


(いや、恋愛に無自覚な奴はいるだろうけどな! こんな大事にする奴は初めて見た!)


 勘違いを解くか迷ったが、あえてそうすることはしなかった。


「で、お兄様。さっきの女性って誰なの? ララァと相談するから教えてくれる?」


 アリィは再び兄に詰め寄る。


 言いたいことはたくさんあったエレンだが、今はどうにかしてアリィを止めなければならないことを知った。


「姫様、ララネさんに言うのはよろしくないかと」


「どうして?」


「シノが頑なに言わないということは、国家機密に関わることかも知れません」


「確かに……そうね。私が軽率だったわ。ありがとう、エレンディル」


 エレンの言葉で腑に落ちたアリィはようやく安心し、朗らかな表情を取り戻す。


 ララネに伝わることは回避されたものの、先が思いやられるのだ。


「前にユオには大丈夫だと言われていたんだが、あまりに気分が悪かったので、先走ってしまった。アリィには心配ばかりかけているな。エレンも、すまない」


 シノはベッドから起き上がり、アリィの頭を撫でてやる。


 十八歳の妹にするような行動ではないのだが、彼女の方も甘んじて受け入れていた。



 どこから突っ込んでいいのかエレンが悩んでいたところで、部屋がノックされる。


「もしもーし、何かあったんですか?」


 ララネの元気な声がドアの外から聞こえたことで、話は中断した。


 真っ先にアリィが扉を開け、彼女を招き入れようとするが――その後ろにはユオも控えていた。


「ララァに、ユオシェム様まで……」


 ちょうど会いたかった人が来てくれたことで、アリィは顔を明るくする。


 それでも兄の心が落ち着くまでは、ユオとたくさん一緒にいることは避けようと思っていたのだ。


「医者が来てたみたいだね。おおよそ見当はついてるけど……」


 部屋に入ったユオは、シノが勘違いを引っ張っていることは予想がついていた。


 それでもあえて言わず、言葉を濁す。


 一緒に来ていたララネは、白いガーベラの花束を持っていた。


 お見舞いには無難な花だ。


「東雲丸さん、昨日からあまり体調が良くなさそうでしたから……王妃陛下に許可を得て、庭の花をいただきました。これくらいなら、礼儀として大丈夫でしょうからね」


 望まない婚約の絶望は、ララネもよく分かっている。


 仲間として励まそうと、彼女なりに考えてやってきたのだ。


「ララネ姫……ありがとう」


 シノはじっとララネを見つめ、その花束を受け取った。


 また鼓動が高鳴るのを感じるが、昨日のような嫌な動悸ではないことに気付く。


 ララネと会った時の不整脈は、憂鬱ではなく高揚を伴うのだ。


「シノ、君の婚約を破棄してあげる。白夜祭までにね」


 ユオはそう告げた。


 期待するように、アリィは彼を見上げる。


 シノも目を見開いた。


「可能、なのか?」


「やるよ。出鶴の貴族勢力については前から調べてたから、君の婚約者がどんな女なのかも分かってるし」


「また、何と礼をしたらいいものか……」


 シノは何度もユオに助けられていて、彼への信頼は絶対的だ。


 ユオがやると言えば、必ず成し遂げるだろう。


 同時に、何も返せていないことに後ろめたさを感じている。


「シノのためだけじゃないんだよ。君が変なものと縁を結んだら、僕らの家族になるってことで……それは勘弁だし」


 ユオにはそれ以上の思惑があったのだが、ここではあえて言わなかった。


 アリィの目が輝いて、安堵して笑っていたのを見られたからだ。


 彼にとっては、それだけでよかった。


「恩に着る」


「その女や取り巻きをここに呼ぶといい。僕が何とかするから」


 シノは花束を持ったまま深々と頭を下げ、またわしゃわしゃと髪をぐちゃぐちゃにされていた。

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