二、帰無仮説
枠谷と並田が再会したのは郷之上市民病院のロビーだった。季節は冬の金曜日、二月になっていた。
「並田さん、お久しぶりです」
「ああ、枠谷さん。なかなか裁判って始まらないものですね」
「たいしたことのない犯罪だったら逮捕から二ヶ月くらいで始まることが多いんですけどね。今回の件は検察も時間をかけて調べているようです。一年くらいかかるかもしれません」
「私が第一発見者ですから、証人として呼ばれるかもしれない。そう思っていると、どうもずっと頭に何か引っかかっている感じで落ち着かないんですよ」
「裁判にもし呼ばれたら、並田さんは見たままを話していただければいいんです。最初に私と話した時みたいに」
「なるほど」
「ところで並田さん、今日はどうしました」
「長男が入院しているんです。腸ねん転で」
「ああ、それは痛そうだ」
「なった時は夜で、とても痛そうで見ている方も苦しかったです。結局、救急車を呼びました」
「大変でしたね」
「処置してもう痛みはなくなったんですけどね。するともう、アイスクリーム食べたい、ですよ。病人がそんなものを食うな。退院するまで待て、って子供に言ってきたところです。今日は妻に用事があったんで、私が午後に有給を取って担当医の話を聞いてきました。明日には退院できるということです。ところで枠谷さんは」
「叔父が入院していましてね。脳の手術をして。お見舞いに来ました。手術前からだと入院何ヵ月になるかな」
「ああ、それはご家族が大変ですね」
「ええ、それがね、叔母はもう癌で亡くなっていて」
「おや、他に身寄りのかたは」
「娘が、私から見ると従妹なんですが、毎週二回見舞いに来るんです。でも、どうもその後に体調が悪くなる、と叔父が言っているんですよ。娘が相手だと、気分が高揚するのか興奮するみたいだ、なんて言って」
並田がふと考えこんだ
「ちょっと待ってください。なにか引っかかるな」
「何が引っかかるんですか」
「毎週二回、何曜日でしょう。娘さんが来るのは」
「水曜日と日曜日です。従妹の仕事が休みだそうで」
「興奮する、って言いましたね。会う度に喧嘩しているとか」
「そんなことはないみたいですよ。それどころか、毎回、従妹がコーヒーと手製のエクレアを持ってくるそうです。お父さん、これ好きでしょうって。それで二人でコーヒーを飲んで、エクレアは従妹がダイエットしていると言って叔父だけが食べているらしい」
「コーヒーとエクレア。カフェインと糖分。枠谷さんの叔父さんはコーヒーをよく飲むんでしょうか」
「いや、それはよく知らないです」
「糖質制限を受けていますか」
「特に食事に関する制限はないみたいですね」
並田がさらに考え込んだので、枠谷は落ち着かなくなった。
「嫌だな、並田さん。私が逆に取り調べを受けているみたいだ」
「ああ、すみません。娘が来て父親の体調が悪くなる。精神的なものでないなら、何か飲んだり食べたりしたものに原因があるのかもしれない」
「毒でも盛られているって言うんですか」
「ええ。ひょっとしたら、と。でも、それを判断するのに足りない情報は何か、と考えていたんです。まず、娘さんが来るたびに叔父さんの具合が悪くなるのは本当か、という確証がほしいですね。娘さんが来た時と来ない時で有意な差があるのかどうか。枠谷さん、検定をしてみましょう」
「検定?」
「病院ですから、脈拍とか体温とかを毎日測っているはずです。そこで、娘さんが来た日と来ない日に本当に差があるのかを統計的に検証するんです。飲み物食べ物の検討をするのはそのあとです。ああ、叔父さんが、娘さんが来ない日でもコーヒーと、エクレアのようなお菓子を日常的に飲んだり食べたりしているかどうかを調べていただけませんか。検定の結果によっては、コーヒーとエクレア、どちらが怪しいかを考えなければいけません」
翌日、枠谷と並田はまたガソリンスタンド併設のコーヒーチェーン店で待ち合わせた。
「あの後、叔父にコーヒーとエクレアについて聞いてみました。叔父はコーヒーが好きですね。手術が終わって飲食がある程度自由になってからは、朝昼夕と病院の自販機のコーヒーを飲んでいるそうです。ただ、エクレアに限らず、日常的にお菓子を食べることはないと言っていました」
「なるほど。コーヒーを一日三杯も飲んでいる人だったら、娘さんとコーヒーを一緒に飲んだ程度で特に興奮することもないでしょう。それに二人で同じものを一緒に飲んでいるということだし、コーヒーの影響は除外できそうですね」
「並田さん、従妹がエクレアに何か悪いものを入れているんじゃないかと疑っていますね」
「エクレアの前に、まず娘さんが来たことが、本当に叔父さんの体調を悪くしているか、検定しなければいけません。枠谷さん、病院で取っているデータは手に入りましたか」
「バイタルサインのデータならコピーを三週間分、手に入れましたよ」
「そのデータについて、医者は異常がないと思っているんですか」
「特に異常値は出ていないらしいです。例えば脈拍なら80が基準値で、60から100までの間に治まっていると」
「このデータは何と言って手に入れましたか」
「叔父は、娘が来ると具合が悪くなると言っているんだが、本当にそうなのか知りたいと正直に話しました。私が刑事だという話もしましてね。病院のほうでも、従妹が来た後に気分が良くないと叔父が訴えるのを聞いていたようです。叔父と娘の仲が悪くて親子の精神的な面で問題があるのか、と疑ったみたいですけど。厄介な人が面会に来られるのは困るので協力する、と言っていました」
「実際に叔父さんと娘さんは仲が悪いんですか」
「良くはなかったと思いますよ。従妹の結婚に叔父が反対して、それでも結婚して、でもその後に従妹が離婚したんです。叔父はそれ見たことかと言っていて、しかし従妹は従妹で、元夫はずっと従妹の実家に不満を持っていた、だから父親の反対が離婚の原因のひとつだ、と思っていました。それで叔父と従妹の間で関係がよくなかった時期がありました」
「娘さんになにか、父親に危害を及ぼす動機がある、と言っていますか」
「いや、そこまでは。ただ、週に二回お見舞いに来ると言うのは、少々意外です。だいぶ仲が修復したと思っていました。並田さん、やっぱりこれ、私が取り調べを受けているみたいです」
「調べているのは確かですよ。さて、検定に入りましょう」
枠谷はバイタルサインのデータを見せた。そこには、脈拍、血圧、呼吸、体温のそれぞれ朝昼夕のデータが記されていた。
「娘さんが来るのは、水曜と日曜の何時ごろですか」
「午後二時から三時ぐらいと聞いています」
「それなら水曜と日曜、その前の日の火曜と土曜、それぞれ夕方のデータを比較するのがいいですね」
並田は脈拍のデータに注目した。
「全部偶数。30秒測って2倍したのかな」
それぞれの曜日の夕方のデータを抽出してみた。
火・土(夕) 78 86 84 76 82 74
水・日(夕) 80 84 88 90 96 98
並田と枠谷は顔を見合わせた。
「確かに全部100未満です。しかしこれは見るからに怪しいですね」
「そうですね」
「平均値の検定をしましょう。娘さんが来た時の母平均は、来ない時の母平均と変わらない、と仮説を立てます。これを帰無仮説と言います」
「キムカセツ?」
並田は帰無仮説、と漢字でデータの余白に書いた。その下には対立仮説、と書いた。
「来た時の母平均は、来ない時の母平均から変化した。これが対立仮説です。来ない時の母平均は火曜と土曜の値の平均を取りましょう。電卓を持ってきました。計算すると、80.00です」
「そうですね」
「有意水準αを0.05とすれば、確率95%で判断します。0.01なら99%です。さて、次に、統計量を計算します。いま統計の話をしている時間はありませんが、この統計量が確率を計算する値なんです。計算の中では母分散というのを出さないといけない。私のスマホに入れてあるアプリを使いますね。母分散も統計量も、元データから勝手に計算してくれますんで。式はこうです」
統計量=((水・日の平均値)―(火・土の平均値))÷ルート((母分散)÷(データ数))
=(89.33―80.00)÷√(22.40÷6)
=9.33÷1.932
=4.829
「この値は1.96よりも大きいですね。それどころか、2.576よりも大きい」
「どういうことです」
「有意水準が0.05どころか、0.01でも帰無仮説は棄却されます。つまり99%以上の確率で」
「犯罪があったと」
「呼吸のデータも同じ傾向がある。それにこの水曜と日曜の値、じりじりと上がっていますね」
「七つめが明日ですよ」
「枠谷さん、叔父さんに言ってください。明日エクレアを食べないように」
「食べたふりをして、私に渡すよう言いますよ。エクレアは鑑識に回します」
枠谷と並田が例のコーヒーチェーン店で会ったのは、それから十日後だった。
「エクレアに何が仕込んであったと思います? カフェインですよ。カフェイン剤を粉状に砕いて入れていました。量にして八グラム。ほぼ致死量です」
カフェインの致死量は五グラムから十グラムなどと言われている。なお、コーヒー一杯に含まれるカフェインはおよそ四十ミリグラムである。
「ああ、やっぱり」
「想像がついていましたか」
「カフェインは脈拍と呼吸数を増加させます。それにコーヒーと一緒というところが、目くらましになると思いました。何かあっても、コーヒーのせいだと言ってごまかす気だったのかも」
「最初は恐る恐る入れていったようです。砕いたカフェイン剤を加えてエクレアの味が変わらないか、気づかれないかと。そして量を少しずつ増やして見ていた。よし気づかれていない、と確信した。そこで例の私らが話し合った翌日の日曜日になって、一気に致死量を入れた」
「枠谷さんが逮捕したんですか」
「いや、従妹ですからね。鑑識にエクレアを渡した後はメンバーを外れました。逮捕したのは静川です。それにしても病院でやりますか。叔父がちょっとでもおかしな様子になれば、病院ならすぐに対処される。仮にもし亡くなっても、死因が病院でばれないとでも思ったんですかね」
「動機は何か話していましたか」
「前から例の結婚の件で恨みがあった。それにクレジットカードで百何十万か借金があって、頑張って返せないこともないんだが、父親の遺産が入らないかと思っていたと」
「それは、従兄の枠谷さんにとって納得できる動機ですか」
「どうだろう。自分の父親を本当に殺したかったのか、それとも殺せると思い込みたかったのか」
「私には息子しかいないので、父と娘の感情はわかりかねます。本当に殺したかったのかどうかも」
「まったく、親類がこんな事件を起こすなんて。刑事をやっているのが嫌になってきました」
「叔父さんが亡くなられたら、二度と叔父さんとその娘の関係修復はできません。枠谷さんが刑事だったから、今回は手遅れにならなかったと思うことにしましょう」
「手遅れにならなかった、ね」
「防犯が出来たと」
「それなら、並田さんとお知り合いになれて良かったんですかね」
「私は刑事さんとこれ以上親しくなりたいとは思っていません。この手の事件に関わるのはもう真っ平です。前にも似たようなことを言いましたね」
そう言う並田は笑っていた。つられて枠谷も笑った。
「それならここで会う機会は、もう無い方がいいですね」
と枠谷が言って、二人は別れた。もちろん、コーヒー代は割り勘だった。




