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Floraison Dawn  作者: 苺大福
6/8

5,邂逅


 辰巳グループ株式会社の本社ビルをあとにした兎城深白は、帰宅する途中コーヒーショップへと立ち寄っていた。

 全世界チェーンであるコーヒーショップ、Saturnbucks Coffee(通称サタバ)はどこにでもある。深白はいつも自宅の最寄り駅にある店舗を利用しているが、この日はその店舗が改装工事による臨時休業の期間にぶつかっていたために別の店舗に足を運んでいた。

 協議会の制服を脱いだ深白はオーバーサイズのパーカーにブラウス、スカートというラフな格好をしている。黒縁の眼鏡越しに一応はメニュー表を一通り眺めた深白は、迷うことなく季節限定のデザートドリンクを注文した。追加料金でホイップクリームを大盛りにして。

 深白は甘いものを好んでいる。特にこの店で毎月発売される新作のデザートドリンクは欠かさず飲んでいて、もはや習慣化した深白の趣味となっていた。

 店員から追加で勧められたケーキを丁重に断り、受け取ったドリンクを持って10名程度が一度に腰掛けることができる巨大なテーブル席に座る。時刻的にちょうど授業を終えたらしい学生の姿が多く、店内の席はほとんどが埋まっていた。


「すみません、隣いいですか? 今どこも空いてなくて」

 4月限定の桜フレーバーを堪能していた深白の右の空席から男性の声がした。

「はい。どうぞ」

 丁寧な方だなとぼんやり考えつつ、深白は何となく男性の方を見た。ちょうど深白の方に視線を向けていた男性も眼鏡をかけていた。互いのレンズの奥の瞳が交錯し


「「 あ 」」


 つい昨夜殺し合った魔法使いと魔王は、互いに素っ頓狂な声をあげた。


 反射的に立ち上がり、ハウンドを起動しようとした深白を透明なカップを持ったままの魔王の左手が制止する。指先から黒く変色した手には極めて細い黒い糸のようなものが幾重にも巻き付いていた。

「滅多なことは考えるなよ。これがどういう意味か、察せぬお前ではないだろ?」

 魔王の手から伸びた黒い糸は、他の客や従業員、店の中にいる全ての人間の首に巻き付いていた。無論、深白の首にも。

 深白の背中に冷たいものが伝った。瞬きもしない間に己を含めた全員を人質にとった男は、顎の動きだけで着席を促した。

 見間違いかと思った。そうであって欲しかった。だが現実は残酷だった。マゼンダを溶かした瞳に長い黒髪、相対する度に見せる陰鬱さこそどこかへ吹き飛んでいるが、間違いようがない。たった今、深白の目の前で深白と同じ限定ドリンクを飲んでいるこの男こそ、この世を脅かす厄災、その全ての元凶、ヨルの王であった。


「なんでここに、あなたが……一体なんのつもりですか……!」

「何って、新作の限定ドリンクを飲みにきただけだが?」

 あっけらかんとした返答。開いた口が塞がらないまま、わなわなと唇を震わせる魔法使いとは正反対に、魔王は頬杖をついてニマニマと意地の悪い笑みを浮かべている。

 訳が分からない。本当に分からない。今自分の隣にいる男は魔王である。人間ではない。化け物だ。それが現代人のような服を着て、都会のコーヒーショップで優雅にティータイムを楽しんでいる。この化け物は食事を必要とするのだろうか……というか魔王であるならば主食は人間ではないのか。餌の群れの中にいて何故砂糖と氷の混合物を啜っているのか。幾度となく対峙した相手だ。人間と同等の知性、言語を持っていることは理解していた。だが陰鬱にして苛烈なあの魔王との対話が叶ったことは一度もない。それがごく普通に自然に流暢に受け答えをしているし何なら礼儀正しい。この男の腹の中はどうなっているのか。幾度となく対峙した相手——そう、何度も殺し合った相手だ。互いに憎悪があっておかしくない相手。それを先手を取っているとはいえ隣に置いて、何食わぬ顔でくつろいでいる。いや飲食はしているのだがそういう話ではなくて。何だこれもうバグでは。

「溶けるぞ」

 ぐるぐると目を回す深白に、隣から至極真っ当な指摘が刺さった。

 

 どれほど時間がたっただろうか。生きた心地がしないまま、深白は魔王の隣で水滴の付いたカップを握りしめていた。時折、店を出る客がドアベルを鳴らすのと同時にその首から解けた糸を見て安堵する。反対に新しく入ってきた客にまた糸が絡まり心臓が冷たくなる。その繰り返し。

 カップの中の氷の粒は未だ個体を保っていて、実際にはそれほどの時間は経過していないのだろうが、深白にはこの苦い時間が永遠にも感じられた。

 深白は動けない。彼の許可なく席を立とうとすれば首に絡まった黒い糸が容赦なく頭と胴体を切り離すだろうし、何より自身と同じ窮地に立たされている無関係の人間たちを放り出すことなど許されなかった。

 唐突に、青い顔をしている深白の首が、正確には首に絡まった糸が強く引き上げられた。倒れた木製の椅子。賑わう店内で物音に気を向けるものはいない。僅かに気道が締まる。無理矢理に立ち上がらせられた深白の足がもつれた。転びかけた深白を受け止めたのは糸を引いた張本人だった。

「ここは邪魔が多い。場所を移そう」

 腰を抱く手を振り払えぬまま目を見張る深白に魔王は口の端を吊り上げた。

「何を驚いた顔をしている、まさか俺とお前の逢瀬がただお茶をして終わりな訳がないだろう」

 深白の頬が硬直する。それは深白が初めから抱いていた惧れだった。仇敵同士が同じ時、同じ場所にあって何も起こらないはずがない。

「——ああ、それとも」


「面倒だから外野の方に消えてもらうか」


 ばちり、と。

 静電気というには些か図々しい水色の放電現象が魔王の腕を振り払った。


「……はは」

 乾いた声で、短く、けれど獰猛な牙を剥いて笑う魔王。長い黒髪が垂れた先で己を見上げる白い魔法使い。壮絶な殺気を溜めたそのライトブルーが、静かにマゼンダを睨んでいた。

「……わかりました。あなたに従いますから、他の人には絶対に手を出さないでください。出来ないというのであれば、ここで、因縁を断つのみです」

 先程までの狼狽した少女は消え、機構じみてヨルを狩る魔法使いが立っていた。

 魔王にとっては、こちらの方が馴染み深い。

「いいだろう。その通りに。今日限り、お前が俺に従う限り他の人間からは血の一滴も奪わないと約束しよう」



 1組の男女が歩いていた。2人の年齢にはさほど差は見られず、年相応の服装に身を包み、適当な距離を保ちながら歩く姿には何の違和感もない。

 男の半歩後ろを歩く少女——深白が両手に握る冷たい汗には誰も気が付かない。

 繁華街から脇道に外れ、老朽化した雑居ビルが無秩序にひしめく路地裏の通りへ。未だ人の出入りがあるのか、既に廃墟となっているのか、一見して判断のつかない建物の外壁には植物の蔓が張り付いている。その側面に備えられた金属製の非常階段は一部が錆に侵され、深白のブーツの踵が段を踏むたびにぱらぱらと破片が落ちていった。

「……ここはなんですか」

 答えを期待しないつぶやきが深白の口から漏れた。深白が建物に入ると同時に、非常口の扉が独りでに閉じた。魔王に手招きされた先には古いアパートの部屋のような空間が広がっていた。

 簡素な机、椅子、寝台といくつかの物品が置かれた棚。いずれも人が使った痕跡が見られるものの、使用、というよりは年数の経過による劣化が激しい。窓枠に四角く切り取られた西日のオレンジの中にちらちらと埃が舞っていた。

 店を出てからここに辿り着くまで、魔王の脅迫はずっと続いていた。深白達がすれ違う人間、否、生物。散歩中の犬や猫、電線に留まる小鳥、全て。悉くに活殺を支配する糸が絡み付いては解けていく。そのような比喩抜きに首の皮一枚だった状況から解放された深白の胸には僅かな安堵があった。

 だから、油断した。

 視界が回転し、深白の上半身に軽い衝撃が走る。自身の体重による反動で舞い上がった埃を吸い込んだ深白は、咳き込みながら己の身に起こった事態を察した。

「——約束は違えるなよ」

 反射的に両腕に力を込めた深白を魔王が牽制する。寝台に押さえつけられた手首の骨が軋む。深白を押し倒した魔王の瞳は、蕩け落ちそうなほどの愉悦に歪んでいた。

「何を、」

 上擦った深白の声に魔王は反応を示さない。ただ、捕まえた子兎をどう調理しようかと悩む猟師のように心底愉快そうに嗤っているだけだ。

 深白の全身をマゼンダの瞳で舐め回した魔王はその腹部で視線を止めた。

 いつの間にか服の下に侵入していた他人の手の感触に深白は小さく悲鳴をあげた。

 魔王の長い指が撫でた少女の柔肌には傷一つ存在しない。薄い腹を掴み肉の接合と内臓の弾力を確かめる。そして、彼の顔から愉悦が消えた。

「そうだな、まずは」

 瞬間、魔王の背の皮を破いて現れたのは翼。長身の彼を丸ごと覆い隠す面積を備えた、猛禽類のそれを彷彿とさせる黒い翼が2人を覆い隠していた。

 そして、その右翼には痛々しい穴が空いていた。

 真円に近い穴から糸を引いているどろりとした黒い液体が、魔王の翼が鳥類のもつそれとは異なる機構の存在であることを示していた。

「まずは、お前がつけた傷を治して貰おうか」


 そして魔王は、深白の首を噛んだ。

「———…………ッ!!」

 ぶつり、という嫌な音と共に、深白の白い肌に魔王の牙が深く突き刺さる。肌を破り、動脈を貫通する激痛に深白は声にならない悲鳴をあげた。

(肉を、喰われ、いや、血を、吸われている……!)

 それが意味するところを理解した深白は顔色を無くしたがもう遅い。深白の手足は既に言うことを聞かなくなっていた。

 数秒の沈黙の後、牙を引き抜いた魔王の口は歪に吊り上がっていた。傷口に吸い付き、溢れ出した血液を呑み降す。舌先で傷を抉り、貪るように、音を立てて、新雪のような柔肌を赤で犯していく。

「……っあ……ゃ、ぁ、」

 血液と共に奪われていく体温、首筋を這う冷たく柔らかい舌の感触、全身に広がる甘い寒気が深白の思考を狂わせる。己の髪と絡まった黒髪の甘い香りに眩暈がする。抵抗の意を込めたはずの言葉は言の葉の体を取れず、単なる嬌声となって、唾液と血液の混ざり合う水音に掻き消された。

「足りない」

 苛立ちを孕んだ声。耳元で響く低音に深白の身体が小さく跳ねる。次の瞬間には深白の左胸に覚えのある痛みが走っていた。溶け切らない理性が恥じらいの熱を瞼と頬に流す。

 下着に手を掛けられていないことを確認して安堵する。それが深白の脳が思考に回せるエネルギーの限界だった。

 ギリギリの危機感とプライドで意識を手放すことこそなかったが、波のように襲いかかる痛みと羞恥と快楽の中で、深白にはただぼんやりと己の口から漏れる己のものではないような声を聞いていることしか許されなかった。


 *


 ひびの入った窓ガラスは暗色に染まっていた。電気の通っていない部屋に灯りはないが、淡く発光するライトブルーとマゼンダは何の問題もなく網膜に実在の像を結んでいた。

 翼の傷が完全に癒えたことを確認した魔王は満足げな表情で人間の形に戻った。寝台に横たわったままの深白の出血も止まっているが、思考には未だ靄がかかったままだ。焦点の合わない視線を感じた魔王は深白に向き直った。

「不味かったな」

 待ってください今なんて言いやがりましたこの男。

 悪辣な脅しをかけて、廃墟同然の密室に連れ込んで、女性の肌に触れて傷をつけて血を奪って、その感想が不味いとは何だ。人としてどうなんだ。いや人ではないが、あれ待てなら正しいのか?

 回らない頭で必死に反論を探す深白の首に魔王の指が触れる。

「まず量が少ないし質も悪い。お前血球足りてないだろう、血漿もほぼ水だぞ」

 イルジオルだけは多かったから食い出はあったが、と黒い羽を一枚弄びながら魔王は続ける。

「腕も足も、骨は細くて脆いし肉も脂肪も最低限しかない。……はは、おもちゃみたいな体」

「なにが、言いたいんですか」

 魔王は喉の奥で笑った。

「お前を知りたかった。顔を合わせる度に自分を殺そうとする女の人となりに興味が湧いたんだ……お前、その身体では生きるだけで精一杯だろう。イルジオルの量に物を言わせて無茶を通しているな、なぜそこまでして俺の前に立つ」

「あなたを殺せば、(ヨル)が終わるから」

「なぜヨルを終わらせたい」

「なぜって、悲しむ人がいるから、困る人がいるから、それが悪いことだからに決まってるじゃないですか」

「一般論が聞きたい訳ではない。お前自身が戦う理由を聞いている。誰かに強制されて嫌々戦っているのか?違うだろ。お前がそうしたいからしているんだろう、それが聞きたい」

「……それは、」

 ——その一般論に私が同意したから。深白にはそれ以外の返答が思いつかなかった。だが、目の前の相手はきっとそんな理由では納得しない、深白にはそれがわかった、わかったが、何と答えるのが正解か、どんな言葉を求められているのかはわからなかった。

 凡その人間と同じように、深白は善なるものを好んでいて、善なるものでありたいと思っている。それが正しい、そうあることが求められている。ヨルがこの世からなくなること、そのために戦うことは紛れもなく善で、良いことである。

 深白は良いことがしたい。一般論ではあろうが、それが全てだ。深白は良いことをして、そして、

「答えられないのならいい」

 浅い思考の波に揺られる深白の髪に魔王の手が触れた。

「——約束の今日が終わる。俺の機嫌が悪くなる前に、帰ることを許そう。お前、名前は」

「……兎城深白です」

 髪に触れていた手が深白の眼鏡を外して、その下の瞼と睫毛に触れる。

「では深白。次に会う時を楽しみにしているよ」


 *


 翌日、カーテンの開いたままの窓から差し込む朝日の眩しさに顔を顰めた深白が跳ね起きたのは自宅のベッドの上だった。泥のように重たい身体を引きずって洗面台の前に立つ。ブラウスの襟についた赤褐色のシミが、アレが夢ではなかったことを証言していた。

 鏡の中で虚ろにこちらを見つめる少女の乱れた白い髪には、黒い王冠の模った小さな髪飾りが一つ添えられえていた。


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