18,ヒノカミ
辰巳グループ株式会社本社ビル、地下1階、演習室B。
およそ250平方メートルの広さの、何もない正方形の部屋。本来はシミュレーターを使用することで実際の戦場に近い環境を再現し、戦闘訓練を行う場である。だが今は空白のままの部屋に金属同士がぶつかる音と火花が舞っている。
鋭くしなやかな金属製のリボンのような夜行獣の触手を、火花とともに柊馬の刀が弾いた。薄い紙1枚程度の厚さしかない触手はその柔らかな動きに反し、鋼と同じ密度と切れ味を持つ。高速で振るわれる鋼の鞭は、人間の肉など掠るだけで容易に切り裂いてしまうだろう。
獣の様な毛むくじゃらの全身に、薄い鋼の触手が幾重にも巻き付いている。不気味に肥大した両腕で重鈍な図体を引きずる夜行獣の下半身は存在せず、代わりにその断面から無数の触手が蠢いている。
高さ15mの演習室の天井、その半分ほどの体長の夜行獣。どこかミニ獣の面影を残してはいるが、それは紛れもなく、餌を求めてヨルの中を彷徨い歩く、夜を行く獣である。
襲いかかる鋼の触手を、柊馬は刀の腹で弾き、余裕があれば切り落とす。相当な硬さのある触手はただ刃を当てるだけでは切り落とせない。面に刃が平行に当たれば、切り落とすどころか触手に巻き付かれ動きを封じられる。反対に垂直に刃を当てれば触手が巻き付くことはないが、斬り込みの角度、刀を握る人間の技量次第では一撃で刃はなまくらと化す。
矢継ぎ早に繰り出される鋼の猛攻は傍目には黒い毛糸の集合体にでも映るだろうか。一つ間違えれば四肢が吹き飛ぶ攻防の中で柊馬の目に焦りはない。
鋼の包囲の隙間を突いて抜けた柊馬は、夜行獣本体へと駆けた。鋼の触手が柊馬を追うが、あと一歩届かず白い床に突き刺さった。
夜行獣の上腕を足場に踏み込んだ柊馬は夜行獣の喉元を逆袈裟に斬り裂いた。黒く粘性のある夜行獣の体液が飛び散るも、鋼の触手がすぐに包帯のように巻き付いてその傷を塞いだ。そしてその間も触手の追撃は止まず、踏み込んだ勢いのまま柊馬の脚も止まらない。
「……ふむ」
眼前に迫った触手の一本を刀の腹で躱すついでに刃をべっとりと濡らしていた夜行獣の体液を拭う。夜行獣の背側、下半身から伸びる触手の分厚い壁に、赤褐色に光るハウンドの出力で穴を開けながら柊馬は横目で夜行獣を睨んだ。
腕2本だけの本体の動きは単純で、斬ろうと思えば斬れる。触手さえ気をつけていればなんとでもなる。意識の半分は夜行獣の迎撃に向けたまま、柊馬は最小限の思考で勝ち筋を模索した。
廊下でミニ獣を引き受けた群青のドヤ顔。魔法使いとして若輩である彼の活躍によって、柊馬は今ここに立っている。先輩として遅れを取るわけにはいかないのである。
先程と同様、否、今度は隙間を抜けるのではなく邪魔な触手を熱量で切り裂いて、柊馬は夜行獣の右側に回り込んだ。赤褐色の刀を横一文字に構えた彼の狙いは、夜行獣の首である。
巻き付いた鋼の触手ごと切り落とす勢いで踏み込んだ柊馬の身体に、突如振り下ろされた巨大な質量が直撃した。
「……ッ!?」
完全に意識の外からの攻撃。反応が遅れて吹き飛ばされた柊馬の身体は、演習室の白い壁に叩きつけられた。
背中から全身に伝わる衝撃、1秒後に襲いかかる激痛。肺から押し出された空気が、苦悶の声とともに柊馬の口から吐き出された。
柊馬が衝突した壁には微細なヒビが入り、土煙が舞う。床に落下した柊馬の頭上に、白い漆喰の欠片がパラパラと降り落ちた。
「……クソッタレ」
血液の混ざった唾液を吐き出した柊馬は、赤褐色の瞳を半月に細めて夜行獣を睨んだ。
柊馬の視線の先にあったのは、黒く巨大な人間の腕のようなもの。成人男性1人くらいなら容易に握り潰せてしまう大きさのそれは、夜行獣から伸びた鋼の触手が螺旋状に絡まり合って形成されていた。
鋼の腕は握った手を開くように指先から解けて触手の形状に戻った。
柊馬の不意を突いて打撃を与えたのはこの鋼の腕である。
相手が夜行獣本体に意識を集中させていたとはいえ、あの超重量の生成、さらに予備動作まで全く悟られずに実行するという芸当はなかなかに脅威である。
鋼の触手は強力であるが、それはどちらかと言えば攻撃ではなく防御の手段だと柊馬は踏んでいた。故に触手自体は完全に排する必要はなく、本体に辿り着くために邪魔なものだけを最低限切り落とせば良いと考えていた。
だがあの腕があるのならば話は変わる。あの攻撃がある以上、本体に辿り着けたとしても刀を振るう寸前で返り討ちに遭う。
夜行獣本体に致命傷を与えるにはまず、あの鋼の触手を刈り取る必要がある。
鼻から垂れた血を拭い、刀を杖に立ち上がる。痛みを訴える四肢の関節に喝を入れる。幸い動きに支障が出るほどのものではなかった。
剣帯から鞘を投げ捨てた柊馬は、左下段に刀を構えて白い床を蹴った。
己へと迫る脅威の気配を感じ取った夜行獣の鋼の触手が柊馬の脚を阻んだ。柊馬が到達するより早く、その予測経路上に突き刺した触手で鋼の檻を形成する。それは、高速道路に張られたピアノ線、もしくは海外映画に登場する侵入者を阻むレーザー光線の様だった。
一寸先を埋め尽くす致命的に鋭利なトラップにしかし、柊馬の脚が止まることはなかった。
凶悪な切れ味を誇る鋼の触手を相手に、一切の傷を負うことなく道を切り開いていく柊馬の刀。正面の檻を形成する鋼の触手のみならず、柊馬の背後、頭上、左右、八方から押し寄せる鋼の触手を斬りつけていく。
だが速度を優先する代わりに一撃の出力を抑えたその斬撃が与えた傷は浅い。浅い損傷に一度は後退した触手の一本が、再び柊馬の背に迫っていた。
鞭のようにしなる姿は舌なめずりをするようで、そこに既に刀傷は見当たらなかった。
柊馬の頚椎を狙った鋼の触手は獲物へ到達する寸前で。
白熱の閃光と共にその黒い鋼の身体を四散させた。
それが引き金であった。
風船が弾けるような、小規模かつ高火力の爆発。柊馬が無数の触手に付けた切り傷が、次々に破裂していく。
爆発によって切り落とされた鋼の触手。その断面から根本に向かって爆発は伝染し、鋼の触手を短く脆いなまくらへと変えていく。
柊馬のハウンドは2段階の戦い方がある。
1段階目は単純な火力の強化。もともと刀の腕が立つ柊馬に戦闘のアシストは必要ない。夜行獣に対抗するための身体強化と出力の強化だけで十分に強力な戦力となる。だが、柊馬の潤沢なイルジオルに対しその程度の使い道しか提示しないというのは雛菊のオタクごこr……もとい技術者としてのプライドが許さなかった。
そうして開発された2段階目。ハウンドによって切り傷を付けた際にその熱と運動エネルギーの一部を停止した状態で付与し、柊馬の定めたタイミングで解放し爆発を引き起こすというもの。これはイルジオルの励起量が多く、柊馬自身に負担も大きい。ある程度のイルジオルの事前励起、すなわちエンジンを温めておかなければ使用することができないため、日常的には使われることのない能力である。
夥しい数の鋼の触手を爆発によって破壊しながら、なおも正面から襲いかかるそれと切り結ぶ柊馬の腕と脚は止まらない。夜行獣の巨体の周囲を半時計に回りながら、鋼の触手を片っ端から刈り取っていく。
柊馬が振るう刃の色は、見開いた彼の瞳の色は、赤褐色を高温の炎で熱した赤、橙、黄を超えて白。
鍛えられた玉鋼のような、夕陽色の光を放つ白が、夜行獣が開いた闇色の檻を切り裂いていく。
顔のない夜行獣に、焦りの表情が見えた気がした。
まだ使い物になる触手を集め、白熱の剣士を押し潰す。柊馬の視界を黒が埋め尽くす。だが触手による包囲が叶った時間は数秒にも満たなかった。
柊馬を囲んでいた球状の黒い触手の集合体は、内側から炸裂した白い熱によって燃やされ灰燼と化した。
鋼の触手に付けた傷ではなく、切り込んだ瞬間に刀身そのものを破裂させたのである。
触手の包囲を抜けた柊馬は夜行獣の背を駆け上った。夜行獣が振るうことができる鋼の触手はもう数えるほどしかない。
ここで仕留める。
左足で夜行獣の背を強く蹴った柊馬は正中に構えた刀を高く振り上げる。
だが、夜行獣にもまだ手札は残っていた。
先程柊馬を殴り飛ばした腕よりも少々小型の腕を、斬られた喉を庇っていた触手で組み上げる。
高速で伸ばされた腕が、今まさに止めの一撃を放とうとしていた柊馬の左脚を掴んだ。
「……ッ……クソが……!」
逆さ吊りにされ、舌打ちをしながら苦々しげに睨む柊馬を嘲笑うように、夜行獣は首を180度回転させ、その巨大な口を開けた。
ジタバタともがく柊馬。だが夜行獣の腕はびくともしない。
勝利を確信した夜行獣はゆっくりと、ゆっくりと捕らえた獲物を口へと運んだ。
硬い獣の毛で覆われた頭部に、縦に開いた口。別の生き物が寄生しているかの如く不気味に蠢く口内では、その全面を覆い尽くすように生えた無数の牙がカチカチとぶつかり合う音を鳴らしていた。
牙の隙間から涎のような黒い粘性の液体がしたたり落ちた。
馳走の最後の一口を勿体ぶるように。
ゆっくりと。ゆっくりと。
少しずつ獲物を口に近づけるその途中。
夜行獣は、獲物から聞こえる音が、苦悶の呻きから笑い声になっていることに気が付いた。
ぴたりと、鋼の腕が止まった。
笑う柊馬を訝しんだ夜行獣が自身で止めたのではない。動かなくなったのだ。
どれだけ命令の信号を送ってもぴくりともしない腕。
既に夜行獣の支配下にはない腕の中で、柊馬は笑っていた。
「馬鹿だな。それに俺が対策してないわけないだろ?」
柊馬が右手で指を鳴らすと同時に、腕の根本が爆ぜた。
伝播した衝撃が宙吊りの柊馬の髪を揺らした。その口元は未だ得意げに吊り上がっている。
爆発は一度きりではなかった。柊馬を掴んでいる掌の方へ、駆け上るように次々と白い爆発が発生していく。
爆発が手首まで到達すると、既にそのほとんどが霧散し、力の入らなくなった鋼の腕は柊馬を夜行獣の背へと落とした。
着地した柊馬は血が上った頭を左右に軽く振った。
そのまま夜行獣の背を、首を登っていく。
後ろを向いたままの頭部を踏み付け、その口に夕陽色に発光する白い刀を噛ませた。溶け落ちた鋼のような熱を放つ刃に、夜行獣の牙の隙間の粘膜が焼ける匂いと音がした。
「なんで斬られてない腕が破裂したんだって、そう思ったろ」
柊馬を捕らえていた腕は、柊馬の斬撃を受けていないにも関わらず爆発した。ように見えた。
あの時爆発したのは柊馬を捕らえていた腕ではなく、腕に付着していた、ごく微量の灰である。
鋼の触手による包囲を抜ける際、柊馬は刀身そのものを破裂させ、同時にその熱に焼かれた触手の欠片ひとつひとつに火種を仕込んでいた。
爆風によって四散した灰。その微細な粒子一粒一粒が、爆弾。
灰が付着した夜行獣の触手、身体、演習室の壁、床、天井、空気中。今この空間にある全てを、柊馬は自在に吹き飛ばすことができる。
「とはいえ、やっぱり灰が火種じゃ火力は弱いな。爆破だけじゃ夜行獣の首は落とせないか……と、おっと」
ぼたり、と。柊馬の鼻から落ちた血は先程の打撃によるものではなかった。
ハウンド使用時のイルジオル過剰励起による身体負荷。
本来はハウンドにセーフティが付いているが、柊馬を含む一部の魔法使いは統括の許可を得てセーフティを外している。
イルジオル励起の大きいハウンドの2段階使用を長時間、大規模に行った代償が柊馬の身体に現れ始めていた。
柊馬は今まで自分が散々群青に言い聞かせてきたことを思い出し、柄にもなく無茶をしてしまった自分に苦笑した。
これでは先輩として群青に合わせる顔がないが、あの状況で助力を請うのもなかなかに格好が付かない。まあ許容範囲だろう。勝ったし。うん。
柊馬は夜行獣の牙に噛ませていた刀を捻り、喉奥に垂直に突き立てた。呼吸を整え、刃と瞳に白熱の光を宿す。
「これで最後だ。派手に燃えろよ、化け物」
ずぶり、と。白熱の刃が夜行獣の喉と延髄を貫通した。
獣の唸り声のような夜行獣の悲鳴。ぐり、と抉られた傷口から黒い体液が沼のように湧き出し、白い刀身を汚した。
「ヒノカグ」
白い閃光。爆風、最後に破裂音。
ゼロ距離で斬撃の爆破と刀身の破裂を受けた夜行獣の首は跡形もなく消し飛んでいた。
爆発の瞬間に合わせて逆方向の小規模な破裂を起こし、衝撃を相殺した柊馬に大きな傷はない。短いポニーテールの焦げた毛先を気にしながら、首を失って倒れる夜行獣の巨体を眺めていた。
夜行獣の黒い毛皮が、不気味な腕が、焼き切れた鋼の触手が、黒い粒子となって霧散し始める。
事態の元凶と思しき夜行獣の反応の消滅は観測室が勝手に拾ってくれるだろう。
首にレイセンを打ち込んだ柊馬は黒いジャケットの裏面で鼻の下の血液を拭い、各々の戦いを繰り広げている友のもとへと向かった。




